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バイオグラフィー

BIOGRAPHY

Michael Jackson /

BIRTHDAY / 1958/8/29 - 2009/6/25

BORN / インディアナ州ゲーリー

OCCUPATION / シンガー、ソングライター、ダンサー、King of Pop(キング・オブ・ポップ)

Michael Jackson
出典:Michael Jackson's Posthumous Career: 10 Numbers That Tell The Tale - Billboard

Michael Jackson(マイケル・ジャクソン)のプロフィール

Michael Jackson(マイケル・ジャクソン)はインディアナ州ゲーリー出身のシンガー、ソングライター、ダンサー、King of Pop(キング・オブ・ポップ)。

マイケルは3人の姉妹(レビー、ラトヤ、ジャネット)と5人の兄弟(ジャッキー、ティト、ジャーメイン、マーロン、ランディ)とともに育ちました。ジャッキー、ティト、ジャーメインはよく父のギターを隠れて演奏していたが、ある日、ティトが弦を一本切ってしまう。張り替える間もなく父に見つかってしまい、いつものように父は暴力を振るおうとするが、ティトは「僕にだって弾けるんだ」と抵抗を示し必死に演奏して見せ、これを見てなかなかの上手さに気づいた父ジョセフは、自身の音楽経験を生かして子どもたちに音楽を教えることにします。

1964年、マイケルとマーロンは、ジャガー、ティト、ジャーメインを含む父親によって形成されたバンドであるJackson Brothers(ジャクソン・ブラザーズ)に、コンガやタンバリンを演奏するバックアップミュージシャンとして加わりました。その年の後半、マイケルはジャーメインとリードボーカルを共有し始め、グループの名前はJackson 5(ジャクソン5)に変更します。翌1965年にはタレントショーで優勝し、1966年からイーストコーストをツアーで回るようになり、1967年にはニューヨークのアポロ・シアターで毎週行われるアマチュアナイトコンサートで優勝します。

Jackson 5(ジャクソン5)はゲーリー・レコード・レーベル、スチール・タウン・レコードに数曲を録音し、1968年に彼らの最初のシングル「Big Boy」は1968年にリリース。その後モータウンと契約し、家族でゲイリーからロサンゼルスに引っ越しました。1969年に初めてテレビに出演を果たし、1970年にはシングル「I Want You Back」がビルボードホット100で1位を獲得します。ティーンアイドルへと成長したマイケルは1971年にシングル「Got to Be There」でソロデビュー。全米で4位、全英で5位を記録します。ソロでも堅調なヒットを重ね、1972年7月発表のシングル「Ben」は、ソロでは初となる全米チャート1位を獲得しました。

モータウンとJackson 5(ジャクソン5)の方向性の違いが少しずつ露呈し始め、1975年、エピック・レコードへ移籍。移籍後は「ジャクソン5」の名前の使用継続が認められなかったため、グループは「ジャクソンズ」として装い新たに再出発することとなります。マイケルは1978年、ミュージカル映画「The Wiz」でDiana Ross(ダイアナ・ロス)と共演。興行としては失敗に終わりましたが、この映画の制作現場でその後3枚のアルバムを共に制作しマイケルの音楽人生を変えることになる音楽家、Quincy Jones(クインシー・ジョーンズ)と出会います。

1979年、ステージの床に鼻をぶつけ骨折してしまい、鼻形成術を行いますがこれが呼吸困難につながり、後に彼のキャリアに影響を与えました。同年5枚目で移籍後初のアルバム「Off the Wall(オフ・ザ・ウォール)」をリリース。ソロでは初めてマイケル自身が作詞作曲を手がけた曲もあり、初めてクインシー・ジョーンズをプロデューサーに迎えて制作されました。アルバムは大ヒットを記録し、アルバムからのシングルすべてがビルボードホット100でトップ10入りする当時史上初の偉業を成し遂げます。

1981年頃よりQueen(クイーン)のFreddie Mercury(フレディ・マーキュリー)といくつかの楽曲をレコーディングしていたものの、関係が悪化してしまい当時リリースされることはありませんでした(2014年にリリース)。その間に制作されたアルバム「Thriller(スリラー)」を1982年にリリース。出荷枚数は推定で1億枚、セールスは6600万枚を記録し、ギネス世界記録において「史上最も売れたアルバム」として認定されています。2年後の第26回グラミー賞では史上最多となる7部門を制覇。シングル「Thriller(スリラー)」のミュージック・ビデオは大きな話題を呼び、今尚最高レベルのミュージック・ビデオとして知られています。

1987年にはアルバム「BAD(バッド)」をリリースし、ソロ初のワールド・ツアーを開始。初演の地には日本が選ばれ、大きなマイケルブームが巻き起こります。1989年、BREアワーズにおいてポップ・ロック・ソウルの三部門を制し、女優Elizabeth Taylor(エリザベス・テイラー)がマイケルを「ポップ・ロック・ソウルの真の王者」と称したことがきっかけで、マイケルは現在に至るまで「King of Pop(キング・オブ・ポップ)」と呼ばれるようになります。

1991年、新たにテディ・ライリーをプロデューサーに迎えたアルバム「DANGEROUS(デンジャラス)」をリリース。先行シングルとなった「Black Or White(ブラック・オア・ホワイト)」のミュージック・ビデオは当時としては最新の映像技術であるモーフィングが採用され、日本においてはテレビ朝日「ミュージック・ビステーション」でも放送され話題を呼びました。1992年には2度目となるワールド・ツアーを行い、翌1993年にはスーパーボウル・ハーフタイムショーに出演。有名音楽家のハーフタイムショー出演が恒例となるきっかけを作りました。ワールド・ツアーは同年、ジョーダン・チャンドラーに性的虐待の訴訟を起こされたため中止となり、音楽活動への多大な影響を懸念してマイケルは和解金を支払うことを選択。ここで和解を結んでしまったことで世間からは偏見の目を向けられることとなり、この問題は後のマイケル・ジャクソン裁判まで尾を引いてしまうきっかけとなってしまいました。

1995年には妹のジャネットとのデュエットシングル「Scream(スクリーム)」をリリースし、当時最先端のCGを全面に駆使したショートフィルムには、約700万ドルの巨額費用がかけられ、ギネス・ワールド・レコーズにも「史上最も費用のかかったPV」として認定されるなど話題となります。同年スタジオ・アルバムとベスト盤の2枚組となった新作「HIStory: Past, Present and Future, Book I」をリリース。シングルカットされた「You Are Not Alone(ユー・アー・ノット・アローン)」はビルボードホット100史上初めて、初登場1位を記録し、「全米シングルチャート初登場第1位を獲得した史上初のアーティスト」としてギネス記録に認定されました。

1997年にはJackson 5(ジャクソン5)としてロックの殿堂入りを果たし、2001年3月には史上最年少でロックの殿堂入りを果たします。同年、生前最後のスタジオ・アルバムとなる「Invincible(インヴィンシブル)」をリリース。候補に挙がった曲は100曲以上にも及び、中には小室哲哉が制作した曲もあったそうです。全米1位を獲得するも最終的な売上枚数は1000万枚に届かず、以降は2003年にギャヴィン・アルヴィーゾへの性的虐待疑惑で逮捕されるなど音楽活動とは違う面ばかり注目されていました。2005年には裁判のすべての起訴事実に関して無罪が言い渡されています。翌2006年にはMTVジャパンのレジェンド・オブ・ミュージック・アワードを受賞し来日。「SMAP×SMAP」にも出演しました。

2009年3月、イギリス・ロンドンのO2アリーナで最後のライブとなる「THIS IS IT」を行うと発表。チケットが売り出されると4時間で50公演分が完売するも6月25日、自宅にて心肺停止状態に至り亡くなってしまいます。同年10月、予定されていたO2アリーナでの公演のリハーサル映像をまとめ、ドキュメンタリー映画「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」として期間限定で公開されました。

マイケルの死後、生前に録音された音源から2枚のアルバムがリリースされており、今尚世界中から愛されています。これまでに全世界で3億枚から3億5,000万枚の音楽作品を売り上げており、ビートルズやエルヴィス・プレスリーに次いで史上最も売れた音楽家として名を連ねているほか、グラミー賞を13回受賞しています。

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洋楽まっぷ編集部

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