Aretha Franklinがソウルの女王として君臨し続けた歴史を6つの時代に凝縮して解説

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洋楽コラム

Aretha Franklin(アレサ・フランクリン)は、ソウルの女王として世界中で知られるアーティストです。1960年代から多くのヒット曲を生み出し、「Respect(リスペクト)」で全米1位を獲得しました。

今回はAretha Franklin(アレサ・フランクリン)がソウルの女王として君臨し続けた歴史を6つの時代に凝縮して解説していこうと思います。

Aretha Franklin(アレサ・フランクリン)のプロフィール

Aretha Franklin

Aretha Franklin(アレサ・フランクリン)は、テネシー州メンフィス出身のシンガー、ソングライター、女優、ピアニスト、公民権活動家。

父親のClarence LaVaughn Franklin(クラレンス・ラヴォーン・フランクリン)はミシシッピ州シェルビー出身のバプテスト派の巡回牧師で、母親のBarbara Vernice Siggers Franklin(バーバラ・ヴァーニス・シガーズ・フランクリン)は才能に恵まれたピアノ奏者でありゴスペル歌手。その影響もあり、ミシガン州デトロイトにあるニューベテル・バプテスト教会でゴスペルを歌う子供としてキャリアをスタートさせました。

1961年、18歳のときにポップスをやってみたいと父親に打ち明け、ニューヨークに移住。父親はマネージャーを務めながら支援し、2曲のデモ制作を作りました。このデモがColumbia Records(コロムビア・レコード)の注目を集め、1960年に契約することになりました。アレサの最初のシングル「Today I Sing the Blues(トゥデイ・アイ・シング・ザ・ブルース)」は1960年9月にリリースされ、後にビルボードのHot Rhythm & Blues Sellersチャート(現在のHot R&B/Hip-Hop Songs)のトップ10入りを果たしました。

CHECK!!
Aretha Franklin(アレサ・フランクリン)のプロフィール・バイオグラフィーまとめ

Aretha Franklin(アレサ・フランクリン)のキャリア

1942-1952 幼少期

アレサ・フランクリン 1942-1952 幼少期

アレサ・ルイーズ・フランクリン(Aretha Louise Franklin)はテネシー州メンフィスのルーシーアベニュー406番地にある家で生まれました。

父親のClarence LaVaughn Franklin(クラレンス・ラヴォーン・フランクリン)はミシシッピ州シェルビー出身のバプテスト派の巡回牧師で、母親のBarbara Vernice Siggers Franklin(バーバラ・ヴァーニス・シガーズ・フランクリン)は才能に恵まれたピアノ奏者でありゴスペル歌手でした。

フランクリン夫妻には4人の子供のほかに、過去の交際相手との子供がいました。アレサが2歳の時にニューヨーク州バッファローに引っ越し、5歳になった頃には、父親がミシガン州デトロイトのニュー・ベセル・バプテスト教会の主任牧師に就任したため、家族もデトロイトに引っ越しました。

フランクリン夫妻は夫の不倫が原因で結婚生活がうまくいかず、1948年に別居。この時母親はアレサの異母兄であるVaughn(ヴォーン)とともにバッファローに帰りました。アレサの母親は1952年、彼女の10歳の誕生日を前に心臓発作で亡くなってしまい、祖母であるRachel(レイチェル)やMahalia Jackson(マハリア・ジャクソン)を含む数人の女性が交代で子供たちの世話をしました。この間、アレサは耳で聞いてピアノを弾く方法を学んだそうです。

アレサの父親の感情を揺さぶる説教で、「million-dollar voice(100万ドルの声)」として知られるようになり、説教をレコードに残した最も初期の説教者のひとりとなります。この頃にはニュー・ベセル教会における務めの傍ら、全米各地で説教を行なうようになり、数千ドルを稼いでいました。

訪問者の中にはゴスペル・ミュージシャンのClara Ward(クララ・ウォード)や「ゴスペル音楽の王」として知られるJames Cleveland(ジェームス・クリーブランド)、ゴスペルグループThe Caravans(ザ・キャラバンズ)初期のメンバーでもあるアAlbertina Walker(アルバーティナ・ウォーカー)やInez Andrews(イネス・アンドリュース)がいました。

キング牧師ことMartin Luther King Jr.(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア)、ソウル歌手のJackie Wilson(ジャッキー・ウィルソン)やSam Cooke(サム・クック)も父親の友人となりました。クララ・ウォードは1949年頃から1973年に亡くなるまでアレサの父親と恋愛関係にありましたが、クララ・ウォードは若いアレサにとって模範的な人物だったと言われています。

1952-1960 デビュー

母親の死後すぐに、アレサはニュー・ベセル教会でソロを歌い始め、賛美歌「Jesus, Be a Fence Around Me(ジーザス・ビー・ア・フェンス・アラウンド・ミー)」でデビューしました。アレサが12歳になると、父親が彼女を管理し始め、「gospel caravan」と呼ばれるツアーに彼女を連れ歩くようになり、様々な教会で演奏をしていました。

また彼女がJVBレコード(現バトルレコード)との最初のレコーディング契約に署名するのを手伝い、初のレコーディングでは録音機材がニュー・ベセル教会に持ち込まれ、9曲が録音されました。1956年、JVBレコードはアレサの最初のシングル「Never Grow Old(ネヴァー・グロウ・オールド)」、裏面に「You Grow Closer(ユー・グロウ・クローサー)」を収録しリリースしました。

1959年には「Precious Lord (Part 1)」、「Precious Lord (Part 2)」のレコードをリリース。これら4曲に「There Is a Fountain Filled with Blood(ゼアー・イズ・ア・ファウンテン・フィルド・ウィズ・ブラッド)」を加え、1956年のアルバム「Spirituals(スピリチュアルズ)」のサイド・ワンとしてリリースされました。これは1962年にバトルレコードから同タイトルで再発売されています。

同年14歳のときに新たに録音した4曲を加えたアルバム「Songs of Faith(ソングス・オブ・フェイス)」を翌1965年にChecker Records(チェッカー・レコード)からリリースしました。

この間、アレサは時々ゴスペル音楽グループSoul Stirrers(ソウル・スターラーズ)と一緒に旅をしていました。 若きゴスペル・シンガーだったアレサは夏にシカゴのゴスペル・サーキットで過ごし、Mavis Staples(メイビス・ステイプルズ)の家族のもとに滞在しました。

1958年、アレサは父親と一緒にカリフォルニアを訪れ、父親の友人でもあったサム・クックと出会い、その後キング牧師のツアーに参加します。このことがきっかけで後の1968年、彼の葬儀で歌うことになります。

18歳になった後、アレサはサム・クックに倣ってポップスをやってみたいと父親に打ち明け、ニューヨークに転居しました。父親はマネージャーを務め、2曲のデモ制作を支援しました。このデモがColumbia Records(コロムビア・レコード)の注目を集め、1960年に契約することになりました。アレサの最初のシングル「Today I Sing the Blues(トゥデイ・アイ・シング・ザ・ブルース)」は1960年9月にリリースされ、後にビルボードのHot Rhythm & Blues Sellersチャート(現在のHot R&B/Hip-Hop Songs)のトップ10入りを果たしました。

1961-1966 コロムビア・レコード在籍時

アレサ・フランクリン 1961-1966 コロムビア・レコード在籍時

出典:Aretha Franklin and Sam Cooke (1962) – Reddit

1961年1月、アレサは初めてポピュラー・シンガーとしてデビュー・アルバム「Aretha: With The Ray Bryant Combo(アレサ:ウィズ・ザ・レイ・ブライアント・コンボ)」を発表しました。アルバムはほとんどがClyde Otis(クロイド・オーティス)のプロデュースによるもので、アレサのコロムビア・レコードでのレコーディングではスタンダード、ボーカルジャズ、ブルース、ドゥーワップ、リズムアンドブルースなど、さまざまなジャンルで演奏していました。

年が明ける前に、シングル「Rock-a-Bye Your Baby with a Dixie Melody(ロッカバイ・ユア・ベイビー)」をリリースすると初の国際的ヒットとなり、オーストラリアとカナダでトップ40入りを果たしました。この成功を受けて年末に発行されたアメリカの音楽雑誌「ダウン・ビート」で「新星の女性ヴォーカリスト」に選ばれました。

翌年リリースされた3枚目のスタジオ・アルバム「The Tender, the Moving, the Swinging Aretha Franklin(ザ・テンダー、ザ・ムーヴィング、ザ・スウィンギング・アレサ・フランクリン)」がビルボードのPop Albums(現在のビルボード200)に初めてランクイン、69位でピークを迎えました。

1960年代、リーガルシアターでの公演中に、WVONのラジオパーソナリティであるPervis Spann(パー​​ビス・スパン)は、アレサを「The Queen of Soul(ソウルの女王)」に戴冠させるべきだと発表しました。彼は儀式的に彼女の頭に王冠を置き、その後生涯において彼女の代名詞となります。

1964年までにアレサはより多くのポップスを録音し始め、1964年にリリースした6枚目のスタジオ・アルバム「Runnin’ Out of Fools(ランニン・アウト・オブ・フールズ)」が翌年、R&Bチャートで初めてトップ10入りを果たし、9位まで上昇しました。1965年から1966年に駆けてリリースされた2枚のアルバム「Yeah!!!」と「Soul Sister(ソウル・シスター)」もR&Bチャートでトップ10入りを果たします。

1960年代半ばまでには、アレサはナイトクラブや劇場での数え切れないほどのパフォーマンスで年間10万ドルを売り上げ、ロックンロール番組にも出演しました。しかし、コロムビア・レコードはアレサの初期のゴスペルの背景を理解しておらず、レコードは商業的な成功を収めるまでには至らなかったため、彼女は会社のお金を借りていました。結局1966年11月、アレサのコロンビア録音契約は失効しました。

1967-1979 アトランティック・レコード在籍時

アレサ・フランクリン 1967-1979 アトランティック・レコード在籍時

プロデューサーのJerry Wexler(ジェリー・ウェクスラー)は彼女にAtlantic Records(アトランティック・レコード)に引っ越すように説得し、移籍を決意します。

1967年1月、彼女はアラバマ州マスクル・ショールズにあるFAMEスタジオでレコーディングを行い、セッションミュージシャンのグループMuscle Shoals Rhythm Section(マスクル・ショールズ・リズム・セクション)をバックバンドに「I Never Loved a Man (The Way I Love You)(貴方だけを愛して)」をレコーディングしました。

しかし、アレサのマネージャーで夫のTed White(テッド・ホワイト)とスタジオのオーナーでありホーン奏者であるRick Hall(リック・ホール)との間で口論になり、セッションは中止、彼女のFAMEでのレコーディングは1曲のみとなってしまいました。

楽曲は翌月にリリースされ、R&Bチャートで初めて1位を獲得し、ビルボードホット100でも9位を記録。アレサにとって初のトップ10入りを果たしたポップ・シングルとなりました。

4月にはアトランティック・レコードからOtis Redding(オーティス・レディング)の 「Respect(リスペクト)」の熱狂的なヴァージョンがリリースされ、R&Bチャートとホット100の両チャートで1位を獲得し、全英チャートでもトップ10入りを果たしました。

シングルの世界的な成功によって彼女の代表曲のひとつとなり、後に公民権とフェミニストの賛歌として賞賛されました。第10回グラミー賞では4つの部門にノミネートされ、女性R&Bソロ・ボーカルパフォーマンス賞、最優秀リズム・アンド・ブルース・パフォーマンス賞の2冠を手にします。同年リリースされたアトランティック・レコードでは初のアルバム「I Never Loved a Man the Way I Love You(貴方だけを愛して)」も商業的に成功し、RIAAでゴールド認定を受けるヒットとなりました。

Aretha Franklin – Respect (Official Vinyl Video)

以降ヒットを連発し、同年リリースされたシングル「Baby I Love You(ベイビー・アイ・ラヴ・ユー)」、「(You Make Me Feel Like) A Natural Woman(ナチュラル・ウーマン)」、「Chain of Fools(チェイン・オブ・フールズ)」はR&Bチャートとホット100の両チャートでトップ10入りをキープし続け、「Chain of Fools」は第11回グラミー賞で女性R&Bボーカルパフォーマンス賞を受賞しました。

1668年から1969年にかけては「Think(シンク)」、「I Say a Little Prayer(小さな願い)」など構成に残るヒット曲を世に送り出し、アトランティック・レコードからの初のコンピレーション・アルバム「Aretha’s Gold(アレサズ・ゴールド)」をリリースしました。

1970年代に入るとアレサの成功は拡大していきます。シングル「Don’t Play That Song (You Lied)(ドント・プレイ・ザット・ソング)」はR&Bチャートで5週に渡って首位を獲得し、1971年には主に60年代のヒット曲を集めたコンピレーション・アルバム「Aretha’s Greatest Hits(グレイテスト・ヒッツ)」をリリース。

1971年にはサンフランシスコの歴史的なロックンロールの会場、フィルモア・ウェストでR&Bパフォーマーとして初めてのヘッドライナーを務め、同年この模様を収めたライヴ・アルバム「Aretha Live at Fillmore West(アレサ・ライヴ・アット・フィルモア・ウェスト)」をリリースしました。

1972年には原点に戻り、1月にロサンゼルスのニュー・テンプル・ミッショナリー・バプティスト教会でジェームズ・クリーブランド牧師と南カリフォルニア・コミュニティ合唱団と共にレコーディングしたゴスペル・アルバム「Amazing Grace(アメイジング・グレイス)」をリリース。200万を超えるセールスを記録し、第15回グラミー賞では最優秀ソウル・ゴスペル・パフォーマンス賞を受賞しました。1999年にはリマスターされ再リリースされています。

レコーディングの模様は後にSydney Pollack(シドニー・ポラック)監督のコンサート映画として制作されましたが、音声と映像の同期の問題や、当時のハリウッドが黒人女性を映画スターとして宣伝することを拒否したため、アレサ自身の意思より配給されませんでした。それがプロデューサーのAlan Elliott(アラン・エリオット)によって公開されたのは2018年11月のことでした。

Quincy Jones(クインシー・ジョーンズ)のプロデュースによる19枚目のスタジオ・アルバム「Hey Now Hey (The Other Side of the Sky)(ヘイ・ナウ・ヘイ:ジ・アザー・サイド・オブ・ザ・スカイ)」は1973年にリリースされましたが、シングル「Angel(エンジェル)」の成功にもかかわらず、ビルボードのTop LPsチャート(現在のビルボード200)で30位がピークとなり、アトランティック・レコードからリリースしたアルバムで初めてトップ25入りできませんでした。

1973年にはStevie Wonder(スティーヴィー・ワンダー)が作曲に参加したシングル「Until You Come Back to Me (That’s What I’m Gonna Do)(待ちこがれて)」はビルボードチャートで3位、R&Bチャートで1位、セールスも100万枚を超える売り上げを記録し大ヒットとなりましたが、アトランティック・レコード在籍時にリリースしたシングルとしては、ビルボードチャートでトップ3入りを果たした最後の曲となり、1975年には彼女のアルバムや曲はもはやトップ・セラーではなくなっていました。

Jerry Wexler(ジェリー・ウェックスラー)がアトランティック・レコードからワーナーブラザーズ・レコードに移籍した後、1976年にはCurtis Mayfield(カーティス・メイフィールド)と共に映画「スパークル」のサウンドトラックを手がけました。このアルバムはアレサにとってこの10年間で最後のトップ40ヒットとなった「Something He Can Feel(愛のはじまり)」を生み出し、この曲もR&Bチャートで1位を獲得しました。

以降1977年に「Break It to Me Gently(やさしくうちあけて)」でR&Bチャートで1位を獲得するなどランクインするものの、ホット100チャートにはシングルをリリースしてもなかなかランクインできなくなってしまい、1979年にアレサは会社を去ることになりました。

またこの年、父親が強盗犯とされる侵入者に至近距離から2発の銃撃を受け、その後5年間に及ぶ昏睡状態に陥ってしまいます。

1980-2007 アリスタ・レコード在籍時

1980年、アレサは行き詰まったキャリアを活性化させることができるのはArista Records(アリスタ・レコード)の代表、Clive Davis(クライヴ・デイビス)だと感じ、同レーベルと契約。同年、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでエリザベス女王の前で堂々としたパフォーマンスを披露しました。

1980年にはコメディ・ミュージカル映画「ブルース・ブラザーズ」の中で、レストランの経営者であり、Matt Murphy(マット・マーフィー)の妻役を演じ、劇中に披露した「Think(シンク)」は高い評価を得ました。

Aretha Franklin – Think (feat. The Blues Brothers) – 1080p Full HD

同年、アリスタ・レコードで最初のシングル「United Together(ユナイテッド・トゥゲザー)」はR&Bチャートで3位を獲得、3年ぶりにトップ10入りを果たし、アルバム「Aretha(アレサ)」をリリース。その後もコンスタントにリリースが続き、1982年のシングル「Jump to It(ジャンプ・トゥ・イット)」がR&Bチャートで4週連続1位を獲得するヒットとなり、同タイトルの28枚目となるスタジオ・アルバムも大ヒット。R&Bアルバムチャートでは8年ぶりの首位を獲得します。

その後も一定のヒット曲を生み出し、1983年にはLuther Vandross(ルーサー・ヴァンドロス)がプロデュースした「Get It Right(ゲット・イット・ライト)」や、1985年の「Freeway of Love(フリーウェイ・オブ・ラヴ)」はR&Bチャートで1位を獲得するヒットとなりました。特に「Freeway of Love(フリーウェイ・オブ・ラヴ)」はビルボードホット100で12年ぶりにトップ3入りを果たし、第28回グラミー賞で最優秀女性リズム・アンド・ブルース・ヴォーカル・パフォーマンス賞を受賞しました。

同年リリースされた30枚目のスタジオ・アルバム「Who’s Zoomin’ Who?(フーズ・ズーミン・フー?)」はダンスポップ、シンセポップ、コンテンポラリーR&B、クロスオーバーアピールのポップソングなど、1980年代半ばの人気ジャンルを盛り込み、大ヒットを記録。アレサのカムバック・アルバムと見なされ、スタジオ・アルバムとしては最大のヒットアルバムとなりました。

1987年にはGeorge Michael(ジョージ・マイケル)とのデュエット曲「I Knew You Were Waiting (For Me)(愛のおとずれ)」をリリース。これはアルバムへの楽曲提供を目的としてアレサ側がジョージに依頼したことをきっかけに実現しました。楽曲は世界的にヒットし、ビルボードホット100では「Respect(リスペクト)」以来20年ぶり2度目で生涯最後の1位を獲得。全英チャートでも唯一の1位を獲得しました。

同年3枚目のゴスペル・アルバム「One Lord, One Faith, One Baptism(ゴスペル・ライヴ)」を発表。ニューベテルバプテスト教会で3日間にわたって録音され、アルバムからは「Oh Happy Day(オー・ハッピー・デイ)」がシングル化されました。またこの年、ロックの殿堂入りした最初の女性になりました。

1988年には妹のキャロリンが乳がんで亡くなり、翌1989年にはマネージャーでもあった兄のセシルが肺がんで亡くなり、プライベートでメンタルが傷つく出来事が続きました。

この時期以降、再び低迷に陥り、シングルではElton John(エルトン・ジョン)とのデュエット「Through the Storm(愛の嵐)」や、Whitney Houston(ホイットニー・ヒューストン)とのデュエット「It Isn’t, It Wasn’t, It Ain’t Never Gonna Be(ネヴァー・ゴナ・ビー・ユア・マン )」をリリースしますが、大きなヒットとなりませんでした。

90年代に入っても低迷は続きますが、1994年にはClivillés & Cole(クライヴィルズ&コール)のカバー「A Deeper Love(ア・ディーパー・ラヴ)」が映画「天使にラブ・ソングを2」の主題歌にも起用されヒット。ビルボードのダンスチャートで1位を獲得します。

続くシングル「Willing to Forgive(ウィリング・トゥ・フォーギヴ)」はホット100で5年ぶりにトップ40入りを果たし、この時期にリリースされたコンピレーション・アルバム「Greatest Hits: 1980-1994」はコンピレーション・アルバムとしては唯一100万枚を超えるヒットを記録しました。

1995年にはアポロシアターでミュージカル「ウィズ」でエムおばさん役に抜擢され、1998年には映画「ブルース・ブラザース」の続編「ブルース・ブラザース2000」に再び出演。同年行われたグラミー賞授賞式では、映画に敬意を表して来て演奏するように頼まれていましたが、予定になかったオペラ「Nessun dorma(誰も寝てはならぬ)」のパフォーマンスを急きょ行うこととなり、世界中で10億人以上が演奏を見て、すぐにスタンディングオベーションを受けました。これをきっかけとして自身のライブでも何度かパフォーマンスを行い、最後は2015年9月にフィラデルフィアで行われたフランシス法王のための世界家族会議での演奏となりました。彼女のパフォーマンスに感動した小さな少年が思わずステージに上がり、歌っている彼女を抱きしめるというハプニングがありました。

同年リリースしたシングル「A Rose Is Still a Rose(ア・ローズ・イズ・スティル・ア・ローズ)」、同名のアルバムが共にRIAAでゴールド認定を受けるヒットとなり、これらは最後のヒット作となりました。

その後2003年までの5年間はリリースが一切行われず、同年アリスタ・レコードで最後のアルバム「So Damn Happy(ソー・デム・ハッピー)」をリリースし、20年以上の在籍期間を経てアリスタ・レコードを離脱することを発表しました。2007年にはアリスタ・レコードに感謝を込めてアレサはデュエットのコンピレーション・アルバム「Jewels in the Crown: All-Star Duets with the Queen(ジュエルズ・イン・ザ・クラウン)」を発表しました。

2007-2018 後期

アレサ・フランクリン 2007-2018 後期

2008年、グラミー賞を主催するナショナル・アカデミー・オブ・レコーディング・アーツ・アンド・サイエンスが、音楽家の音楽業界における芸術的功績と慈善活動に対する献身性を讃えて毎年授与する賞「ミュージケアーズ・パーソン・オブ・ザ・イヤー」を受賞。式典では「Never Gonna Break My Faith(ネヴァー・ゴナ・ブレイク・マイ・フェイス)」をパフォーマンスしました。

翌年は当時のアメリカの大統領、バラク・オバマ氏の大統領就任式で「My Country, ‘Tis of Thee(マイ・カントリー・ティズ・オブ・ジー)」をパフォーマンスし国際的な注目を集めました。2010年、フランクリンは腫瘍の手術を受けるために多くのコンサートをキャンセルし、治療に専念します。2011年にはシカゴ劇場でカムバックショーを行い、自身のレーベル「アレサ・レコード」を立ち上げます。同時に37枚目のスタジオ・アルバム「Aretha: A Woman Falling Out of Love(ア・ウーマン・フォーリング・オウト・オブ・ラヴ)」を発表しました。

2013年5月、彼女は非公開の治療のために2回の公演をキャンセルしました。すぐに復帰を考えていたものの、結果として継続的な治療のためにキャンセルされた。彼女はシカゴでのメジャーリーグの昼食会への出演をキャンセルし、8月24日に公民権への取り組みを称えました。当時奇跡的に回復したものの、万全の体勢ではなかったためショーをキャンセルせざるを得なかったと後に語っています。同年、デトロイトのモーターシティカジノホテルでのクリスマス・コンサートを含むライブパフォーマンスで復帰。

2014年には再びクライヴ・デイビスと協力し、コロンビアの姉妹レーベルでもあるRCAレコードと契約。David Letterman(デビッド・レターマン)とのレイト・ショーに参加し、Adele(アデル)の「Rolling in the Deep(ローリング・イン・ザ・ディープ)」とMarvin Gaye(マーヴィン・ゲイ)の「Ain’t No Mountain High Enough(エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ)」のパフォーマンスを行い、スタンディング・オベーションを受けました。

Aretha Franklin – Rolling In the Deep (The Aretha Version) (Audio)

「Rolling in the Deep(ローリング・イン・ザ・ディープ)」はRCAレコードからリリースされ、ビルボードのホットR&B /ヒップホップ・ソング・チャートに100曲目をランクインさせた最初の女性となりました。またこれらを収めた38枚目にして最後のスタジオ・アルバム「Aretha Franklin Sings the Great Diva Classics(グレイト・ディーヴァ・クラシックス)」もリリースされました。

2015年にケネディ・センター名誉賞が送られたCarole King(キャロル・キング)のセクションで、「(You Make Me Feel Like) A Natural Woman」パフォーマンスを披露。歌の途中でファーコートを脱ぎ捨てるというパフォーマンスは大きな話題を呼び、会場の熱気は最高潮に達し、スタンディングオベーションを受けました。

2016年の感謝祭の日にデトロイトのフォード・フィールドで、ミネソタ・バイキングスとデトロイト・ライオンズの試合の前に再び国歌を披露しました。ピアノを前にして、4分以上にも及ぶパフォーマンスは絶賛されました。

2017年には地元のデトロイトのテレビキャスターであるエブロドカシミーとのインタビューで、2017年が彼女の最後のツアーになると発表しました。同年、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団とのアルバム「A Brand New Me(ブラン・ニュー・ミー)」をリリース。医師のアドバイスに基づいてキャンセルする前に、2018年のコンサートの日程をいくつかスケジュールしましたが、健康上の理由でいくつかのコンサートをキャンセルしました。

デトロイトでの野外公演では「私をあなたの祈りの中にとどめておいて」と観客に呼びかけたものの、その手腕とショーマンシップで高い評価を得ました。2017年9月3日のラビニア音楽祭で行われたライブが最後のフルコンサートとなり、アレサ最後の公演となったのは2017年11月7日、ニューヨークのセント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂で行われたエイズ支援基金が25周年のガラパーティーでした。

2018年8月13日、アレサはデトロイトのリバーフロント・タワーズにある自宅で重病であると報告されました。彼女はホスピスケアを受けており、友人や家族に囲まれていました。アレサは2018年8月16日に自宅で76歳、遺言なしに亡くなりました。

訃報に対して芸能界の数多くの著名人や政治家がアレサに敬意を表し、公民権運動家であり牧師でもあるAl Sharpton(アル・シャープトン)は、彼女を「公民権と人道主義のアイコン(偶像)」と呼びました。

8月19日にニュー・ベセル教会で追悼式が行われました。その後チャールズ・H・ライト・アフリカ系アメリカ人歴史博物館で行われたお別れの会では数千人が敬意を表しました。デトロイトのグレーター・グレース・テンプルで行われた8月31日のお別れの会には、著名人、政治家、友人、家族が参列、多くのテレビ局を通じてライブ放送されました。アレサの希望で、彼女の父や他の家族の追悼式で講演していたように、彼女はアトランタのセーラム・バプテスト教会のJasper Williams Jr.(ジャスパー・ウィリアムズ・ジュニア)牧師の弔辞を受けました。

テレビ中継されたセブンマイル・ロードの行列の後、アレサはデトロイトのウッドローン墓地に埋葬されました。

音楽のスタイルとイメージ

「アレサ・フランクリンは間違いなくソウル・ミュージックの巨匠の1人であり、実際にアメリカン・ポップス全体の巨匠の1人だと言えます。他のどのパフォーマーよりも、彼女は最もゴスペルに満ちたソウルを体現していました。」

そう語るのは作家のRichie Unterberger(リッチー・アタンターバーガー)。「声の柔軟性、解釈の知性、巧みなピアノ演奏、彼女の耳、彼女の経験」などのすべてが、しばしば偉大な歌手およびミュージシャンとして説明されていました。

若干19歳で世界最大のレーベルだったコロムビア・レコードと契約するに至ったのはその圧倒的な歌唱力にあると言っても過言ではないでしょう。幅広い音域を自在に使いこなし、天性のリズム感、ソウル・ミュージックを体現する上で必要なものは全て兼ね備えていました。

そしてその実力を後押ししてるのは彼女の人生における喜怒哀楽に対しての表現力。そして感情をストレートに表現できる技術。幼い頃から培ったゴスペルでの歌唱で自然に身についていったものだと思います。技術だけで人々を魅了するのは至難の業。

アレサには4人の子供がおり、1人目は12歳で初めて妊娠して1955年に出産しています。2回の結婚を経験し、癌で兄弟をなくし、父親が銃で撃たれ何年も介護が必要になるなど、かなり波乱万丈です。そういった意味でも歳を重ねるごとに彼女の人生そのものが歌声として世界中に届けられ認知されたことも影響しているかもしれません。

レガシーと栄誉

アレサ・フランクリン レガシーと栄誉

他にもたくさんの賞を受賞していますが、主だったものを羅列しました。

・1979年 ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームのスター(星)を獲得
・1985年 ミシガン州の「natural resource」と宣言
・1987年 女性初のロックの殿堂入り
・1991年 グラミー賞の特別功労賞伝説賞を受賞
・1994年 グラミー賞 特別功労賞生涯業績賞を受賞
・1994年 ケネディ・センター名誉賞を受賞
・1999年 国民芸術勲章を受賞
・1999年 コレッタ・スコット・キングからアカデミー・オブ・アチーブメントのゴールデンプレートを授与
・2005年 大統領自由勲章を受賞
・2005年 ミシガン・ロックの殿堂入り
・2005年 イギリスの音楽の殿堂入り
・2008年 ミュージケアーズ・パーソン・オブ・ザ・イヤーを受賞
・2012年 ゴスペルの殿堂入り
・2015年 ナショナルリズム&ブルースの殿堂入り
・2018年 メンフィス音楽大殿堂入り
・2019年 ピューリッツァー賞 特別賞

その他、2010年発行の「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」で1位、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」で9位、2013年にはビルボードが史上最高の女性R&Bアーティストに指名しました。

グラミー賞ではこれまで44作品がノミネートし、18作品が受賞しています。特別功労賞伝説賞、特別功労賞生涯業績賞を含めると20回受賞しています。

2017年6月8日、デトロイト市はアレサの遺産を称え、マディソン通りの一部、ブラシ通りとウィザレル通りの間の名前を「アレサ・フランクリン通り」に変更しました。

生前、自身の伝記映画を作る際に、自身の役にはJennifer Hudson(ジェニファー・ハドソン)にやってもらいたいと直接話して指名していました。これが実現し、ジェニファー・ハドソン主演の映画「リスペクト」が完成。2021年に公開される予定です。

最後に

いかがでしたでしょうか?

アレサ・フランクリンがソウルの女王として君臨し続けた歴史を6つの時代に凝縮して解説しました。

アレサ・フランクリンの生涯は波乱万丈でしたが、「ソウルの女王」に相応しくパワフルに生き抜いたその人生を見返すと、彼女に敵うシンガーはいないと感じざるを得ません。

時代背景なども考えると彼女のような人生を背負った歌唱ができるアーティストは今後出てこないかもしれませんね。

WRITER

ISAO

1920年代以来、ハリウッド映画、ジャズ、ブロードウェイと「Tin Pan Alley」音楽の時代でしたが、ラジオ放送開始と共にポピュラー音楽の時代が到来、後にはメンフィスに生まれたロックンロールを介して、米国は長らく世界のサブカルチャー(大衆娯楽文化)を支配して来ました。…が、ビートルズを機に「British Invasion(英国の侵略)」が始まり、世界に革命的な衝撃を与えました。このような大きな節目、歴史的転換期に遭遇したISAO(洋楽まっぷ専属ライター)が思いついたことを、気の向いたままに、深く掘り下げていきます。

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