ラン・ディーエムシー

Run-DMC(ラン・ディーエムシー)のプロフィール、歌詞一覧、アルバム・シングルを網羅したディスコグラフィーをご紹介。最新の洋楽はここからチェック。

プロフィール

Run-DMC
Photo PRESS
  • BORN
    ニューヨーク市クイーンズ区ホリス
  • SNS
  • MEMBERS
    Joseph Simmons, Darryl McDaniels, Jason Mizell (Past members)
  • YEARS ACTIVE
    1983–2002, 2012–2014, 2023

Run-DMC(ラン・ディーエムシー)は、1983年にJoseph Simmons(ジョセフ・シモンズ)、Darryl McDaniels(ダリル・マクダニエルズ)、Jason Mizell(ジェイソン・ミゼル)によってニューヨーク市クイーンズ区ホリスで結成されたアメリカのヒップホップグループ

ヒップホップ文化の歴史において最も影響力のあるアーティストの一つであり、特に1980年代を代表するヒップホップアーティストの一つとされている。

結成

Run-DMCのメンバー3人はニューヨーク・クイーンズのホリス地区で育った。ジョセフ・シモンズ(のちのRun)は兄であるRussell Simmons(ラッセル・シモンズ)の影響でヒップホップに関わり、当時ラッセルがマネージメントしていたKurtis Blow(カーティス・ブロウ)のDJとして活動していた。ダリル・マクダニエルズ(のちのDMC)はもともとスポーツに関心があったが、ターンテーブルを購入してDJを始め、シモンズの勧めでラップを書き始めた。

1970年代後半、シモンズとマクダニエルズはホリスのTwo-Fifths Parkに通い、地元のDJに自分たちのラップを披露しようとしていた。そこで出会ったのがジェイソン・ミゼル(のちのJam Master Jay)である。彼は派手な服装とBボーイ的な態度で知られ、やがて音楽に専念するようになった。やがて3人は友人となり、ラッセルの協力でRunは「Street Kid」というシングルを出すが失敗に終わった。それでもRunは活動を続けたいと望み、1982年にマクダニエルズと組むことを決意。さらにミゼルを正式DJに迎えた。

1983年、ラッセルが再び支援し、彼らにレコード契約を結ばせた。このときグループ名を「Run-D.M.C.」としたが、当初メンバーは気に入らなかった。名前はシモンズのDJ名「Run」と、マクダニエルズの頭文字を組み合わせたもので、「Devastating Mic Controller」の意味も込められた。

デビュー

Profile Recordsと契約後、1983年末にデビューシングル「It's Like That / Sucker MCs」を発表し、R&Bチャートで15位を記録した。翌年1984年にはデビュー・アルバム『Run-D.M.C.』をリリースし、「Jam-Master Jay」「Hard Times」などのヒットで一発屋でないことを証明した。特に「Rock Box」はヒップホップとハードロックを融合させた画期的な作品であり、後のラップ・ロックの先駆けとなった。

デビュー後のキャリア

Run-DMCは従来のヒップホップを一新し、音楽面だけでなくファッション面でもカルチャーを変革した。従来のラッパー(アフリカ・バンバータやグランドマスター・フラッシュのメンバーなど)は派手なグラム・ロック風の衣装をまとっていたが、Run-DMCはMizellのスタイルに影響を受け、カンゴール帽、カザールのサングラス、レザージャケット、靴紐を外したアディダスのスニーカーといった「ストリート」ファッションを取り入れた。靴紐なしのスニーカーは刑務所でのルールを起源とし、それをファッションとして取り入れたものだった。このスタイルは以後25年間のヒップホップ・ファッションの基盤となった。

また、表に出る機会が少なかったものの、Jam Master Jayことジェイソン・ミゼルはRun-DMCのサウンドとイメージに大きな影響を与えた。彼はグループの「ストリート・クレデンシャル(信頼性)」を確立し、さらに50 Cent(50セント)を発掘するなどヒップホップを世界規模に広げた功績もある。2012年の『ガーディアン』紙は、Run-DMCの楽曲のほとんどのサウンドを生み出したのはミゼルであると評している。

Run-DMCはデビュー作の成功を受け、1985年リリースの2枚目のスタジオ・アルバム『King of Rock』でさらにラップとロックの融合を進めた。「Can You Rock It Like This」「King of Rock」などが代表曲で、「Roots, Rap, Reggae」は初期のラップ/ダンスホールの融合曲の一つである。「Rock Box」のミュージック・ビデオはMTVで放送された初のヒップホップ映像であり、チャンネルで大量に流れた。アルバムはプラチナ認定を受け、彼らはライブ・エイドにも出演した。

同年、ヒップホップ映画『Krush Groove』に出演。この映画はラッセル・シモンズのデフ・ジャム・レコーディングス設立をモデルにした作品で、Kurtis Blow(カーティス・ブロウ)やLL Cool J(LL・クール・J)、Beastie Boys(ビースティ・ボーイズ)らが登場し、ヒップホップの存在感をさらに広めた。

1986年、Rick Rubin(リック・ルービン)をプロデューサーに迎え、3枚目のスタジオ・アルバム『Raising Hell』を発表。これはダブル・プラチナを獲得し、ビルボード200で3位を記録する大ヒットとなった。特にAerosmith(エアロスミス)との共演曲「Walk This Way」はビルボードホット100で4位となり、ヒップホップとロックの融合を決定づけただけでなく、エアロスミスのキャリア復活にもつながった。さらにシングル「My Adidas」をきっかけにアディダスと160万ドルのスポンサー契約を結び、ヒップホップファッションの先駆けを築いた。

『Raising Hell』の成功はヒップホップ黄金期の幕開けとされ、LL・クール・Jやビースティ・ボーイズらの躍進にもつながった。ただし、同作の成功を受けたツアーではギャング同士の抗争による暴力が相次ぎ、メディアはRun-DMCに責任を押し付けた。グループはこれに対しロサンゼルスで「平和の日」を呼びかけ、翌1987年にはビースティ・ボーイズと共に『Together Forever Tour』を行った。

1987年のツアー後、1988年に4枚目のスタジオ・アルバム『Tougher Than Leather』を発表した。前作のラップロック色を抑え、よりサンプル重視で荒々しいサウンドへ転換した作品で、「Run's House」「Beats to the Rhyme」「Mary Mary」などのシングルを生んだ。『Raising Hell』ほどの成功はなかったが、後に評価が高まり、ヒップホップ・グループPublic Enemy(パブリック・エナミー)のChuck D(チャックD)も再評価している。同年には映画『Tougher Than Leather』にも出演したが、興行的には失敗。しかし、デフ・ジャム・レコーディングスとの関係性が強まり、彼らがデフ・ジャム・レコーディングス所属と誤解されるきっかけとなった。

1990年には5枚目のスタジオ・アルバム『Back from Hell』を発表。しかしニュー・ジャック・スウィングなどの新潮流を取り入れた結果、批評的にも商業的にも失敗。メンバーの私生活にも問題が噴出し、マクダニエルズはアルコール依存に苦しみ、ジャム・マスター・ジェイは事故や銃撃に遭遇。シモンズも強姦容疑で訴えられるが後に不起訴となった。こうした混乱の中で、メンバーは信仰に救いを求め、とくにRunは教会に深く傾倒するようになった。

3年間の空白を経て、1993年に6枚目のスタジオ・アルバム『Down with the King』で復活。過去作の荒々しさを継承しつつ宗教的要素も加え、Pete Rock & CL Smooth(ピート・ロック&C.L.スムース)やA Tribe Called Quest(ア・トライブ・コールド・クエスト)のQ-Tip(Qティップ)らが参加。タイトル曲がヒットし、アルバムはビルボード200で7位、R&Bチャートでは1位を記録し、プラチナ認定を受けた。

ただし、これが最後の大きなヒットとなった。ジャム・マスター・ジェイは自身のレーベルJMJレコードを立ち上げ、Onyx(オニックス)を発掘・プロデュースし、彼らは「Slam」で大成功を収めた。Runはその後、牧師として叙任され、1995年にはデフ・ジャム制作のドキュメンタリー映画『The Show』に出演し、ヒップホップ業界のリアルな姿を語った。

1990年代後半からRun-DMCはレコーディング活動をほとんど行わず、ジャム・マスター・ジェイはオニックスや50セントを育成・契約、シモンズは離婚・再婚を経て牧師となり、兄ラッセルと共著を出版するなど宗教・慈善活動に注力した。マクダニエルズは家族優先の生活を送りつつ、Notorious B.I.G.(ノトーリアス・B.I.G.)のアルバムに参加した。

しかしツアーを続ける中で、マクダニエルズは薬物依存と鬱に苦しみ、自殺まで考えるほど追い詰められていた。1997年、Jason Nevins(ジェイソン・ネヴィンズ)による「It's Like That」のリミックスが欧州で大ヒットし、グループは再び注目を浴びた。その後WWFのテーマ曲を制作し、音楽活動を少しずつ再開した。だが、音楽性を巡ってシモンズとマクダニエルズの対立は深刻化。シモンズは攻撃的なラップロック路線を望んだ一方、マクダニエルズは内省的な音楽を志向していた。結果として2001年の7枚目のスタジオ・アルバム『Crown Royal』にはDMCの参加がわずか3曲にとどまり、批評家からは不満が出たが、ゲスト参加が多く一定の評価もあった。

その後、エアロスミスとの世界ツアーは成功を収め、マクダニエルズもステージ復帰で鬱を克服しつつあった。さらにデフ・ジャムとの契約の噂もあったが、シモンズは家族やファッションブランドPhat Farmの仕事を優先し、Run-DMCを続ける意欲を失っていた。そして成功の裏で突如、引退を宣言した。

2002年10月30日、ジャム・マスター・ジェイことミゼルはクイーンズのレコーディングスタジオで銃殺された。ファンや友人たちはスタジオ前にアディダスのスニーカーやアルバム、花を供えて追悼した。この事件を受け、シモンズとマクダニエルズはRun-DMCの正式な解散を発表した。事件は長らく未解決だったが、2020年8月にロナルド・ワシントンとカール・ジョーダン・ジュニアが逮捕され、2024年2月に有罪判決を受けた。さらに2023年5月にはジェイ・ブライアントも起訴された。ブライアントは別途裁判を行うことになり、中立証人のヤラ・コンセプシオンによる「発砲前の争いの目撃証言」や、現場でミゼルの遺体のそばに落ちていた帽子からブライアントのDNAが検出されたことが証拠とされた。

2004年、Run-DMCはVH1 Hip Hop Honorsの初回で2Pac(2パック)やThe Sugarhill Gang(シュガーヒル・ギャング)と並び表彰された。ビースティ・ボーイズがトリビュートを行ったが、シモンズはソロ活動中で欠席し、マクダニエルズはソロ作を発表した。また、彼が養子であることを知ったことから、実の家族との再会を追うドキュメンタリー番組『My Adoption Journey』の中心となった。マクダニエルズはゲーム『ギターヒーロー:エアロスミス』にも登場し、音楽活動のほかテレビ出演も行った。一方シモンズはリアリティ番組『Run's House』で家庭生活を公開した。

2007年、マクダニエルズはロンドンのハード・ロック・コーリングでエアロスミスと共演。2008年にはシモンズがキッド・ロックのツアーに参加し、代表曲を披露した。同年、ミゼルの妻と共にJ.A.M. Awardsを創設し、社会正義・芸術・音楽を推進する活動を展開した。2009年、Run-DMCはロックの殿堂入りを果たし、ラップ・グループとしては2組目の快挙となった。その後2012年から2014年にかけてフェス出演などで再結成ライブを行ったが、新曲の制作はなかった。

Run-DMCの伝記映画企画が2009年に発表されたが、製作には至らなかった。2021年、マクダニエルズはニコロデオンと契約し、子供向け番組や書籍『Daryl's Dream』を発表するなど、教育・児童分野での活動を展開した。

そして2023年8月11日、シモンズとマクダニエルズはニューヨーク・ヤンキー・スタジアムで行われた『Hip Hop 50』記念コンサートでRun-DMCとして最後の公演を行った。

歌詞

Walk This Way

歌詞カタカナ