Backstreet Boys(バックストリート・ボーイズ)のプロフィール
Backstreet Boys(バックストリート・ボーイズ)はアメリカ合衆国フロリダ州オーランドで結成されたボーカルグループ。メンバーはNick Carter(ニック・カーター)、Howie Dorough(ハウィー・ドロー)、AJ McLean(AJマクリーン)、Brian Littrell(ブライアン・リトレル)、Kevin Richardson(ケヴィン・リチャードソン)の5人組。
ハウィーとAJは共にフロリダ州オーランド出身で知り合い、後にオーディションでニックと出会い、3人は意気投合しトリオを結成します。ブライアンとケヴィンはケンタッキー州レキシントン出身でいとこ同士。子供の頃、地元の教会の聖歌隊や祭りで歌っていました。
ケヴィンは1990年にオーランドに移り、そこでウォルトディズニーワールドで働きながら夜は音楽活動に専念する日々を送っていましたが、同僚を通じて3人と知り合い、4人はグループとして活動することになります。
1992年に音楽プロデューサーのLou Pearlman(ルー・パールマン)がボーカルグループを構成するための広告を出しAJがオーディションに参加、グループの最初のメンバーとなり、続く3人も期待に応えて選ばれます。ブライアンもケンタッキーからオーランドへ飛んで正式に参加し、1993年4月20日にBackstreet Boys(バックストリート・ボーイズ)が結成されました。
1993年からショッピングモール、レストランからフロリダ州フォートローダーデールの有名なチャリティーガラまで、さまざまな会場で演奏を続けました。同年マーキュリー・レコードが契約を締結するも、所属のアーティストJohn Mellencamp(ジョン・メレンキャンプ)が「ボーイバンドのビジネスに参入するならレーベルを去る」としたため契約はすぐに終わります。
1994年、グループがクリーブランドの高校で演奏しているのを見たジャイヴ・レコードのJeff Fenster(ジェフ・フェンスター)の目に留まり契約となり、グループはスウェーデンに飛び、Max Martin(マックス・マーティン)とDenniz PoP(デニス・ポップ)と一緒にいくつかの曲を録音しました。
翌1995年にシングル「We've Got It Goin' On(ウィーヴ・ガット・イット・ゴーイン・オン)」でデビュー。デビューシングルがイギリス、スウェーデン、オーストラリアでトップ3入りするスマッシュヒットとなり、ヨーロッパでの成功により、彼らは夏のツアーに参加し、プロモーションは主にヨーロッパで行われるようになりました。翌1996年にリリースしたデビュー・アルバム「Backstreet Boys(バックストリート・ボーイズ)」が全世界で1400万枚の大ヒットを記録します。
1997年にリリースした2枚目のスタジオ・アルバム「Backstreet's Back(バックストリーツ・バック)」はドイツ、ノルウェー、スイス、フィンランド、オランダ、ベルギー、オーストリアで1位を記録し、ヨーロッパだけで500万枚を超えるセールスを記録。アメリカではこのアルバムから楽曲をチョイスしてデビューアルバムに収録され、同年US盤として発売されました。この累計が2400万枚を超えています。
翌1998年、ブライアンはルー・パールマンと彼の会社に対して訴訟を起こします。これは1993年から1997年まで、パールマンと彼の会社は約1,000万ドルの収益を上げましたが、バンドは30万ドルしか得られなかったため。後にAJ、ケヴィン、ハウィーも訴訟に加わり、最終的には和解が成立しました。
3枚目のスタジオ・アルバム「Millennium(ミレニアム)」はこの最中レコーディングが開始され、先行シングル「I Want It That Way(アイ・ウォント・イット・ザット・ウェイ)」を翌年リリース。25カ国以上で1位を記録し、日本では現在でもカラオケで歌われる名曲としても知られています。
アルバムは1位でビルボード200(アルバムチャート)に入り、リリースの最初の週に1,134,000枚を売り上げました。その年アメリカだけで940万枚以上を売り上げ年間1位を記録。最終的に全世界で2400万枚を売り上げるヒットとなりました。
続く「Black & Blue(ブラック・アンド・ブルー)」も1500万枚を売り上げ、実質4枚のスタジオ・アルバム(厳密には3枚)が1000万枚を超えるセールスを記録しました。プロモーションではストックホルム、東京、シドニー、ケープタウン、リオデジャネイロ、ニューヨーク市を訪れ、100時間で世界中を旅しました。ビルボード200では最初の週に160万枚を売り上げ、The Beatles(ザ・ビートルズ)以来、2作続けて最初の週で100万枚を超えるセールスを記録しました。
最初のコンピレーションアルバムである「The Hits - Chapter One(邦題:グレイテスト・ヒッツ-チャプター・ワン)」は、2001年10月23日にリリースされました。アメリカ、イギリス、ドイツ、カナダでトップ5に入り、スイス、オーストリア、オランダ、ニュージーランドでトップ10に入り、全世界で600万枚を売り上げます。
2002年頃よりレーベルとの関係が悪化し、ニック以外の4人が管理会社であるThe Firmを辞めたいという強い願望を表明し、ジャイヴ・レコードの親会社にあたるゾンバ・ミュージック・グループに対して契約違反を主張して7500万ドルから1億ドルの訴訟を起こします。翌年にはAJがテレビ番組でアルコールや麻薬への依存症を公表。メンバーは彼をサポートするためにサプライズ出演して彼を驚かせ、グループがほぼ2年ぶりに公の場に現れました。その後翌年の初めにカムバックアルバムの録音を開始することを計画します。
5枚目のスタジオ・アルバム「Never Gone(ネヴァー・ゴーン)」は2005年にリリースされ、ビルボード200で初登場3位を記録。しかし、劇的なスタイルの変化は、ローリング・ストーン誌から否定的な批判を集めました。最終的には前作の勢いをはるかに下回るセールスとなりましたが、それでも全世界で300万枚を売り上げました。アルバムのツアーは東京でも行われました。
翌年、ケヴィンが他の利益を追求するために脱退。それでも日本での人気は根強く、4人体制でリリースしたアルバム「Unbreakable(アンブレイカブル)」は日本のオリコンチャートで2週連続1位を獲得します。しかしマックス・マーティンが一切関わらなかった今作はビルボード200では7位、イギリスでは21位とあまり伸びず、全世界でのセールスは170万枚に留まります。
2009年には元のダンスポップビートに戻り、より多くのR&Bサウンドが含まれたアルバム「This Is Us(ディス・イズ・アス)」をリリース。ビルボード200では9位とこれまでで最も低い位置でのチャートインとなりますが、日本で2位にピークを迎え、25万部の出荷でプラチナ認定を受けました。
2011年にジャイヴ・レコードを去り、2008年に活動を再開していたアメリカの5人組グループ、New Kids on the Block(ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロック)と合同でツアーを開催し、51回のショーで4000万ドル以上を稼ぎ出しました。ツアーは2012年6月まで続き、北米、ヨーロッパ、オーストラリア、アジアで80のショーが行われました。この間にケヴィンが復帰し再び5人体制での活動となります。
2013年にはグループの20周年を祝い、その日ハリウッドでファンのお祝いイベントを開催。ハリウッドウォークオブフェイムでスターを獲得し、2013年4月22日、ハリウッドのバックストリートボーイズデーとして宣言されました。その後20周年記念ツアーに乗り出し、同年独立後初となる8枚目のスタジオ・アルバム「In a World Like This(イン・ア・ワールド・ライク・ディス)」をリリースします。
2014年、長らく続いたルー・パールマンとの訴訟問題が終了し、グループは99,000ドルの現金、34のオーディオテープリール、26のCD、7つのスタジオマスタリングオーディオテープ、6つの封印されたポスター、3つのオーディオカセット、および1つのVHSテープの和解金を受け取りました。レコーディングには、未発表のミックス、デモ、オリジナルの素材が含まれています。
2015年、グループのドキュメンタリー映画「Backstreet Boys: Show 'Em What You're Made Of」が公開され、その後ニックが脚本・主演を務めた映画「DEAD7(デッド・セブン)」が公開。この映画にはAJ、ハウィーも出演しました。
9枚目のスタジオ・アルバム「DNA」が2019年に発売され、ビルボード200では19年ぶりに1位を獲得。カナダ、オーストリア、スイスでも1位を獲得し、グループのカムバックアルバムとして大きな話題となりました。
これまでのCD総売り上げは1億4000万枚を超えており、史上最も売れたボーイバンドとなっています。意外にもシングルでの全米1位は一度も獲得しておらず、最高位は1996年のシングル「Quit Playing Games (with My Heart)」の2位。