ボブ・ディラン

バイオグラフィー

BIOGRAPHY

Bob Dylan / ボブ・ディラン

BIRTHDAY / 1941/5/24 (82歳)

BORN / ミネソタ州ダルース

OCCUPATION / シンガーソングライター、作家、ビジュアルアーティスト

Bob Dylan
出典:Instagram

Bob Dylan(ボブ・ディラン)のプロフィール

Bob Dylan(ボブ・ディラン)は、ミネソタ州ダルース出身のシンガーソングライター、作家、ビジュアルアーティスト。出生名はRobert Allen Zimmerman(ロバート・アレン・ジマーマン)。

ミネソタ州ダルースのセントメアリーズ病院で生まれ、同じくミネソタ州のヒビング、スペリオル湖の西にあるメサビ山脈で育ちました。幼少期はルイジアナ州シュリーブポートのブルースやカントリーステーションを中心としたラジオを聴き、10代の頃はロックンロールを聴いていました。

学生時代はヒビング高校に通いながらいくつかのバンドを結成し、Little Richard(リトル・リチャード)やElvis Presley(エルヴィス・プレスリー)のカバーを演奏していました。1959年9月、ディランはミネアポリスに移り、ミネソタ大学に入学。この時期よりロックンロールよりもフォークミュージックに興味を持つようになります。

キャンパスから数ブロック離れた喫茶店であるテンオクロックスカラーで演奏を始め、ディンキータウンのフォークミュージックサーキットに参加するようになりました。この時期より「Bob Dylan(ボブ・ディラン)」と名乗るようになります。当初はDillon(ディロン)という名前も検討していたそうですが、後の説明では詩人のディラン・トーマスから取ったとも、また叔父の名前であるディリオンから取ったとも述べているため正確なところはわかっていません。

1960年5月、ディランは1年目の終わりに大学を中退。彼はニューヨーク市を訪れ演奏するようになり、色々なフォークシンガーと知り合い、それがHarry Belafonte(ハリー・ベラフォンテ)の1962年のアルバム「Midnight Special(ミッドナイト・スペシャル)」で病んでいるソニー・テリーをディランが埋めることにつながります。またニューヨークタイムズの評論家Robert Shelton(ロバート・シェルトン)は、ゲデスフォークシティでの彼のパフォーマンスを非常に熱心にレビューし、ディランのキャリアを後押ししました。これらの経緯もありコ初年度に5,000枚を売り上げ、損益分岐点に達したため、

1962年8月に彼は合法的に彼の名前をRobert Dylan(ロバート・ディラン)に変更し、Albert Grossman(アルバート・グロスマン)と管理契約を結びます。グロスマンは以後1970年までマネージャーを務め、時には対立的な性格と保護的な忠誠心で知られていました。同年、イギリスへ長期旅行へ行った際にテレビディレクターのフィリップ・サヴィルから、サヴィルがBBCテレビの監督を務めていたドラマ「マッドハウス・オン・キャッスル・ストリート」に出演するよう招待されており、番組では「Blowin’ in the Wind(風に吹かれて)」をパフォーマンス。

1963年、2枚目のスタジオ・アルバム「The Freewheelin’ Bob Dylan(フリーホイーリン・ボブ・ディラン)」をリリースすると、全英チャートで1位を獲得。ラブソングやシュールなトーキングブルースも含まれていたアルバムによって、ディランの曲は、彼が単なるソングライター以上のものとして見られるようになりました。公民権運動が高まりを見せていたアメリカにおいてボブは次第に「フォークの貴公子」として多大な支持を受け、時代の代弁者とみなされるようになっていきます。

1964年、3rdアルバム「The Times They Are a-Changin’(時代は変る)」をリリース。その年の後半から1965年にかけて、ディランはフォークソングライターからフォークロックポップミュージックのスターに転向しました。彼のジーンズとワークシャツは、昼夜を問わずカーナビーストリートのワードローブ、サングラスに置き換えられ、「ビートルブーツ」を指さしました。同年リリースのアルバム「Bringing It All Back Home(ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム)」はプロデューサーのトム・ウィルソンの指導の下、電気楽器を使った彼の最初のレコーディングをフィーチャーした、もう1つの飛躍でした。結果全英チャートでは2度目の1位、アメリカでもビルボード200で6位を記録し、初のトップ10入りを果たしました。

同年もう1枚のアルバム「Highway 61 Revisited(追憶のハイウェイ61)」をリリースしており、リードシングル「Like a Rolling Stone(ライク・ア・ローリング・ストーン)」は代表作のひとつとなるほどの大ヒットとなります。2004年と2011年に、ローリングストーンはそれを「史上最高の500曲」のナンバーワンに挙げるほど、60年代のロック変革期を象徴する曲とされ、彼の名声を神話的レベルにまで高めた作品として知られています。同年秋には当時25歳の元モデルのサラ・ローンズと静かに結婚。

1966年、「Blonde on Blonde(ブロンド・オン・ブロンド)」をリリースした翌月、ニューヨーク州ウッドストック近郊でオートバイ事故を起こします。重傷が報じられるも入院はせず、すべてのスケジュールをキャンセルして隠遁。再起不能説や死亡説などの噂が流布しました。以後はほとんど公に出てこないまま楽曲制作を中心に活動し、ほぼ8年間、再びツアーをしませんでした。

それでも人気は続き、その後リリースした4枚のアルバムは全英チャートで連続して1位を獲得し続けます。1972年、ディランはサム・ペキンパーの映画「パット・ギャレット」と「ビリー・ザ・キッド」に署名し、映画の曲とバッキング音楽を提供し、ビリーのギャングのメンバーである「エイリアス」を演奏しました。興行収入での映画の失敗にもかかわらず、「天国への扉のノックイン」という曲はディランの最もカバーされた曲の1つになりました。

ディランは1973年にコロムビアレコードとの契約が切れたときに新しいレーベル、デヴィッドゲフィンのアサイラムレコードと契約することから始め、1973年の秋にレコーディングされ、The Band(ザ・バンド)をバックグループとして使用して、メジャーツアーのリハーサルを行いました。翌1974年1月、バンドに支援されたディランは、7年ぶりとなる40回のコンサートの北米ツアーに乗り出します。同時期にリリースされた14枚目のアルバム「Planet Waves(プラネット・ウェイヴス)」はビルボード200で初の1位を獲得。翌1975年、コロムビアに復帰し、15枚目のアルバム「Blood on the Tracks(血の轍)」をリリース。こちらも1位を獲得しました。

1978年、ディランは1年間のワールドツアーに乗り出し、日本、極東、ヨーロッパ、北米で114のショーを行い、合計200万人の観客を集めました。ディランは8ピースのバンドと3人のバックシンガーを集めました。 2月と3月の東京でのコンサートは、武道館でのライブ2枚組アルバムとしてリリースされました。1978年のツアーの総額は2,000万ドルを超え、ディランはロサンゼルスタイムズに、「私は2、3年の悪い年を過ごしました。映画に多額の資金を投入し、大きな家を建てました。そして費用がかかるため、借金がある」と語りました。同時期、ディランは同じバンドとボーカリストをカリフォルニア州サンタモニカのランダウンスタジオに連れて行き、アルバム「Street-Legal( ストリート・リーガル)」をレコーディングしています。

1979年にはダイアー・ストレイツのギタリスト、マーク・ノップラーをフィーチャーし、ベテランのR&Bプロデューサーであるジェリー・ウェクスラーによってプロデュースされたアルバム「Slow Train Coming(スロー・トレイン・カミング)」をリリース。以後1980年リリースの「Saved(セイヴド)」、1981年リリースの「Shot of Love(ショット・オブ・ラブ)」と共に「ゴスペル三部作」と呼ばれています。

80年代はUSAフォー・アフリカに参加したり、チャリティー・コンサートの「ライヴエイド」にしたりと、いくつかのチャリティーに関わる動きが多くありました。70年代のころに比べると商業的にアルバムの売り上げは減少していたものの、1989年には、U2のボノの進言で招聘したダニエル・ラノワの好サポートによる26枚目のアルバム「Oh Mercy(オー・マーシー)」が久々のヒットとなります。

90年代中ごろより伝統的なフォークソングとブルースソングをカバーし、ルーツに戻ったディランは1994年MTV Unpluggedに出演。また同年、8年ぶりとなる来日公演も行われました。1999年6月から10月、ポール・サイモンとアメリカでツアーを開始しています。

2000年には、映画「ワンダー・ボーイズ」に新曲「Things Have Changed(シングズ・ハヴ・チェンジド)」を提供。2001年に、ゴールデングローブ賞主題歌賞[117]とアカデミー歌曲賞を受賞しました。2004年には自伝「Chronicles: Volume One」を発売し、2006年には32枚目のアルバム「Modern Times(モダン・タイムズ)」で約30年半ぶりとなる、ビルボード200での1位を獲得。2007年10月には初の個展となる「The Drawn Blank Series」が、ドイツのケムニッツにて開催。またこの期間はデビュー45周年としてコンピレーション・アルバム「Dylan(ディラン)」をリリース。翌2009年には33枚目のアルバム「Together Through Life(トゥゲザー・スルー・ライフ)」は初めて、ビルボード200と全英チャートどちらも1位を獲得しました。

レコードデビュー50周年を迎えた2012年には、アメリカ大統領のバラク・オバマより大統領自由勲章(文民に贈られる最高位の勲章)が授与され、2016年には歌手としては初めてノーベル文学賞授与が決定。しかし発表からから約2週間、本人からの正式な発表が行われず話題となりましたが最終的には授賞を受け入れると発表しています。

2020年には39枚目のアルバム「Rough and Rowdy Ways(ラフ&ロウディ・ウェイズ)」をリリース。ビルボード200で2位、全英チャートで1位を獲得しました。同年、ユニバーサル ミュージック グループが、彼の全楽曲の著作権を取得したと発表。2022年にはソニー・ミュージックエンタテインメントは、今後つくる曲を含むデビュー以降録音した彼の全楽曲の原盤権を取得したことを発表しています。

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洋楽まっぷ編集部

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