Simon & Garfunkel(サイモン&ガーファンクル)のプロフィール
Simon & Garfunkel(サイモン&ガーファンクル)はPaul Simon(ポール・サイモン)とArt Garfunkel(アート・ガーファンクル)によるフォーク・デュオ。
2人は1940年代と1950年代に、ニューヨークのクイーンズにあるキューガーデンヒルズで、互いに3ブロック離れた近所で育ちました。小学校時代からの親友だった2人はフォレストヒルズ高校に通いながら1957年にデュオ「トム&ジェリー」を結成し、マンハッタンのSanders Recording Studioで25ドルかけてデビュー曲「Hey Schoolgirl(ヘイ・スクールガール)」をレコーディング。レコーディング中、彼らはプロモーターのSid Prosen(シド・プロセン)に耳を傾けられました。シド・プロセンは両親と話した後、彼のインディーズレーベルであるビッグレコードにサインしました。彼らは15歳でした。
「Hey Schoolgirl」は、全国のAMポップステーションで定期的にローテーションを呼び、10万枚以上を売り上げ、ビルボードのチャートで49位にランクインしました。しかし続くシングルがヒットせず、1958年にフォレストヒルズ高校を卒業した後、音楽のキャリアが展開されないように、2人は大学での学業に専念しました。ポール・サイモンはニューヨーク市立大学クイーンズカレッジで英語を学び、アート・ガーファンクルはコロンビア大学のコロンビア大学で美術史に切り替える前に建築を学びました。その間ポール・サイモンがソロシングルをリリースしたことでアート・ガーファンクルは動揺し、このことから感情的な緊張は時折彼らの関係を通して表面化していきました。
共に大学を卒業した1963年に再びデュオとして活動を開始、Columbia RecordsのスタッフTom Wilson(トム・ウィルソン)の注目を引き、Columbia Recordsと契約。トム・ウィルソンがプロデュースを行い、1964年にグループ名をSimon & Garfunkel(サイモン&ガーファンクル)と改めて、アルバム「Wednesday Morning, 3 A.M.(水曜の朝、午前3時)」でデビュー。しかし、発売初年度の売上がわずか3,000枚と失敗に終わり、ポール・サイモンはヨーロッパ放浪の旅へ出て、アート・ガーファンクルもデビュー前に通っていた大学院へと戻ってしまいます。
そんな中1965年にアルバムに収録されていた「The Sound of Silence(サウンド・オブ・サイレンス)」を再編曲しシングルとしてリリースすると全米1位を記録。リリースまでの過程はトム・ウィルソンがプロデュースし行ったため2人とも知らなかったそうです。翌1966年には100万枚を売り上げ2人はニューヨークで再会。CBSはヒットの波に乗るために「The Sound of Silence」と呼ばれる新しいアルバムを要求し急いで制作されました。
「The Sound of Silence」は1966年のうちにリリースされビルボードのトップLPチャートで21位を記録。日本でもヒットしますが、成功したにもかかわらず、多くの人が彼らを民謡の製造された模倣と見なしたので、デュオは批判的な嘲笑を受けました。また次のアルバムがなかなか完成せず、当時のアーティストは毎年2、3枚のアルバムをリリースすることが期待されていたため、生産性の欠如がコロンビアの幹部を悩ませていました。
4枚目のスタジオ・アルバム「Bookends(ブックエンド)」は、1966年後半から1968年初頭にかけてレコーディングされました。アルバムは長い間計画されていましたが、作業は1967年後半まで本格的に開始されませんでした。アート・ガーファンクルの歌と声がいくつかの曲で主導的な役割を果たし、デュオが知られていたハーモニーは徐々に消えていきました。ポール・サイモンにとって、「Bookends」はコラボレーションの終わりを表しており、ソロに行くという彼の意図の初期の指標となったそうです。しかしそれとは裏腹にアルバムは7週連続1位を獲得するヒットとなります。1969年の第11回グラミー賞では、リードシングル「Mrs. Robinson(ミセス・ロビンソン)」が最優秀レコード賞を受賞した最初のロックンロール曲となり、最優秀ポップ・パフォーマンス賞デュオ/グループも受賞しました。
最後のスタジオ・アルバムとなる「Bridge over Troubled Water(明日に架ける橋)」は1970年1月にリリースされ、11か国以上でチャート化され、米国のビルボード・トップLPチャートやUKアルバムチャートを含む10のチャートで1位を獲得。世界中で2500万枚以上を売り上げ、1970年、1971年、1972年に最も売れたアルバムであり、当時は史上最も売れたアルバムでした。イギリスでは短いツアーが行われ、デュオの最後のコンサートがフォレストヒルズスタジアムで行われました。1971年、アルバムは第13回グラミー賞で最優秀アルバム賞を受賞、同名シングルも最優秀レコード賞を受賞しました。
大ヒットの裏で「Bridge over Troubled Water」のレコーディングは2人の関係を悪化させてしまい、ポール・サイモンはコロムビア・レコードのClive Davis(クライヴ・デイビス)会長に電話をかけデュオの解散となり、それぞれソロ活動に入ります。
1970年代にデュオは数回再会しており、1981年9月19日にはニューヨークのセントラル・パークで再結成チャリティコンサートを開いて53万人もの観衆を動員し、世界ツアーを行っています。しかしアルバム制作となるとどうしても意見の食い違うがあるようで新作がリリースされることはなく、以後もたびたび再結成してはツアーを行っています。