ミスター・ビッグ

バイオグラフィー

BIOGRAPHY

MR. BIG / ミスター・ビッグ

YEARS ACTIVE / 1988-2002 2009-present

MEMBERS /
Eric Martin
Billy Sheehan
Paul Gilbert

MR. BIG
出典:Instagram

MR. BIG(ミスター・ビッグ)のプロフィール

MR. BIG(ミスター・ビッグ)は、1988年にロサンゼルスで結成されたアメリカのロック・バンド。オリジナル・メンバーはボーカルのEric Martin(エリック・マーティン)とギターのPaul Gilbert(ポール・ギルバート)、ベースのBilly Sheehan(ビリー・シーン)、ドラムのPat Torpey(パット・トーピー)の4人。パット・トーピーの死後、3人に加えサポート・メンバーとしてドラマーNick D’Virgilio(ニック・ディヴァージリオ)が参加しています。2002年に一度解散しますが、デビュー20周年にあたる2009年にオリジナル・メンバーの4人で再結成。キャリアを通じて日本市場では一貫した人気を維持しています。

1988年、David Lee Roth(デヴィッド・リー・ロス)のバンドに在籍していたベーシストのビリー・シーンが脱退した後、シュレッディング・ジャンルに特化したレーベル、シュラプネル・レコードのMike Varney(マイク・ヴァーニー)の助けを得て新しいバンドを結成し始めました。当時キャピトル・レコードのソロ・アーティストだったエリック・マーティンをスカウト。当初はBilly Idol(ビリー・アイドル)のサポートギタリストとして知られるSteve Stevens(スティーブ・スティーヴンス)と、デヴィッド・リー・ロスのバック・バンドで一緒に演奏していたドラマーのGregg Bissonette(グレッグ・ビソネット)を加えてバンドを完成させるつもりでしたが、スティーブ・スティーヴンスは当時行っていたソロ・プロジェクトのAtomic Playboys(アトミック・プレイボーイズ)を続けることを選択し、グレッグ・ビソネットもバンドに残ることを決めたため、この案は崩れました。

その後すぐにロサンゼルスを拠点とするヘヴィメタルバンド、Racer X(レーサーX)のギタリスト、ポール・ギルバートに声をかけ加わり、ドラマーはオーディションを行ったうえで多くの著名なアーティストとレコーディングやツアーを行っていたパット・トーピーに決まり、オリジナル・メンバーの4人が揃いました。

エリック・マーティンの勧めで、新しく結成されたバンドは自身のマネジメントの他にSantana(サンタナ)、Journey(ジャーニー)、Europe(ヨーロッパ)のマネジメントも行っていたマネージャーのHerbie Herbert(ハービー・ハーバート)を雇います。バンド名はいくつかの候補のうち、パット・トーピーが提案したロンドンのロック・バンドFree(フリー)の1970年の楽曲「Mr. Big」に因んだバンド名「MR. BIG(ミスター・ビッグ)」が採用されました。

1989年までに彼らはアトランティック・レコードと契約し、同年にセルフ・タイトルのデビュー・アルバム『MR. BIG』をリリース。このアルバムはビルボード200で46位をマークし、日本のオリコンアルバムチャートでは22位と最も高いチャート入りを果たしました。シングル「Addicted to That Rush」はビルボードのメインストリーム・ロック・チャートで39位。日本では早くから人気を得ていたこともあり、1989年には初来日公演を開催。翌1990年には初のライヴ・アルバム『Raw Like Sushi』をリリースしています。

1991年、2枚目のアルバムからのリード曲「Daddy, Brother, Lover, Little Boy (The Electric Drill Song)」はチャート入りを果たせませんでしたが、『Lean into It』リリース日と同日にシングル化された「Green-Tinted Sixties Mind」はビルボードのメインストリーム・ロック・チャートで33位を記録し、全英チャートにも72位と初めてランクイン。アルバムは日本とフィンランドでトップ10入りを果たします。

『Lean into It』をリリースしてから約8か月後となる1991年11月、元々シングル化される予定ではなかった「To Be With You」がラジオで人気となり急遽シングルとしてリリース。ビルボードホット100で初の1位を獲得し、通算3週で首位をキープする大ヒットを記録。その他11カ国で首位を獲得する世界的ヒットとなり、世界的ブレイクを果たします。またこの現象をきっかけにアルバムは再び売れ始め、オーストラリア、ドイツ、カナダ、スイスでトップ10入りを果たし、アメリカでは120万枚を超える大ヒットとなりました。

バンドは1991年9月に再び来日公演を開催。翌1992年にはライヴ・アルバム『Raw Like Sushi II』をリリース。また1991年4月と5月、そして1992年にイギリスでもツアーを行い、同年ライブ・アルバム『Mr. Big Live』をリリース。他にも3夜にわたり、ロンドンのウェンブリー・アリーナでAerosmith(エアロスミス)の前座も務めました。

1993年、3枚目のスタジオ・アルバム『Bump Ahead』をリリース。当初は6月にリリースされる予定だったものの、レーベルから「To Be With You」のようなアコースティック・バラードを追加することを要望され、最終的に自作ではないCat Stevens(キャット・スティーヴンス)の1970年の曲「Wild World」をカバーし追加収録。3か月ほど押した9月のリリースとなりました。このアルバムには先行シングルがなく、「Wild World」を翌月シングルとして初めてリリース。カナダ、スイス、スウェーデンなどではトップ10入りを果たしましたが、ビルボードホット100では27位と再びトップ10入りとはいきませんでした。

日本での人気の高さもあり、アルバムリリース後すぐに来日公演が行われ、翌1994年には初の武道館公演を含んだツアーも開催。ライヴ・アルバム『Japandemonium: Raw Like Sushi 3』をリリースしています。

1996年、4枚目のスタジオ・アルバム『Hey Man』をリリース。全米チャートでは遂にランクインを果たせなくなってしまったものの、日本を含むアジアの多くの地域での人気は継続どころか高まる様子すら見せ、オリコンのアルバム・チャートでは初の1位を獲得しました。アジア市場でのツアーをソールドアウトさせ続け、この年も来日公演を開催。同年11月には、初のコンピレーション・アルバム『Big Bigger Biggest: Greatest Hits』をリリース。その後、テレビ朝日系列の音楽番組『ミュージックステーション』への出演を最後に活動休止を宣言。メンバーはそれぞれ、ソロ活動、別のプロジェクトに乗り出す中、翌1997年には『Live at Budokan』をリリース。

1999年、ポール・ギルバートが脱退し、レーサーXを再結成。バンドは新たにギタリストRichie Kotzen(リッチー・コッツェン)を迎え、5枚目のスタジオ・アルバム『Get Over It』を日本で先行リリースしました。オリコンのアルバム・チャートでは5位を記録。バンドは20日間にわたる日本ツアーを行い、その後1999年の大晦日に大阪の大阪ドームで行われたミレニアム・ファイナル・カウントダウンに出演しています。

2001年、6枚目のスタジオ・アルバム『Actual Size』をリリース。この時のバンドの雰囲気は最悪で、ビリー・シーンがギタリストのSteve Vai(スティーヴ・ヴァイ)とツアーを行ったことで明確な亀裂が生じます。エリック・マーティンとパット・トーピーは前進を続ける唯一の方法はビリー・シーンを解雇することだと決断するほど。ビリー・シーンは解雇を考えていたメンバーに腹を立てていたものの、フェアウェル・ツアーを行うことを条件にバンドに復帰。最終的には2002年2月に解散し、その後5月に声明を発表しました。

2008年5月13日、ロサンゼルスのハウス・オブ・ブルースでミスター・ビッグに近い「一度限りの」同窓会が開催され、そのときポール・ギルバートはパット・トーピー、リッチー・コッツェン、ビリー・シーンとともにステージに上がり、「Daddy, Brother, Lover, Little Boy」などを演奏しました。3人は非常に素晴らしい時間を過ごしたと感じ、数日後にエリック・マーティンに連絡を取ることにし、オリジナル・メンバー4人の再結成が動き出します。

2009年2月1日、酒井康がパーソナリティを務めるラジオ『Heavy Metal Syndicate』の放送にてミスター・ビッグからの短いメッセージが含まれており、デビュー・アルバムの20周年を祝うためにオリジナルのミスター・ビッグのラインナップが再結成されることを発表。2月の日本での記者会見は大きな話題を呼び、6月からは武道館を含む10か所で公演する全国ツアーが発表されました。同年9月にエストニアのタリンのロックカフェで日本国外初の再結成コンサートを開催し、ツアーを続けました。

翌2010年にはロサンゼルス近郊のスタジオでプロデューサーのKevin Shirley(ケビン・シャーリー)とともに7枚目のスタジオ・アルバム『What If…』をレコーディング。このアルバムは日本では2010年12月15日に、ヨーロッパでは2011年1月21日、そして米国では2011年2月にリリースされました。アルバムをサポートするツアーは、2011年4月2日にカリフォルニア州ハリウッドのハウス・オブ・ブルースで始まり、2011年10月にトルコのイスタンブールでのロックアウト・フェスティバルで終了した。バンドは6月のダウンロード・フェスティバルにも出演。日本でもスケジュールが組まれていた来日公演は東日本大震災直後であったものの開催され、急遽レコーディングされコンサート会場限定で販売された被災地救援シングル「The World Is On The Way」もリリースされました。

2014年7月25日、パット・トーピーがパーキンソン病と診断され、アルバム『The Stories We Could Tell』をサポートするバンドの2014年から2015年にかけてのワールドツアーで通常のドラム演奏の任務をすべて遂行できなくなることを発表。同年9月にリリースされた8枚目のスタジオ・アルバム『…The Stories We Could Tell』には『Get Over It』以来となるPat Regan(パット・リーガン)がプロデュースを担当。パット・トーピーがドラムを担当した最後のアルバムとなりました。また全米ビルボード200では158位にランクインし、『Bump Ahead』以来21年ぶりにチャート入りを果たしました。

2017年、9枚目のスタジオ・アルバム『Defying Gravity』をリリース。パット・トーピーはドラムを叩ける状態ではなかったため、ドラム・プロデューサーという立ち位置でドラマーのMatt Starr(マット・スター)が参加。同年の来日公演でパット・トーピーは主にパーカッションを担当しました。2018年2月7日、パーキンソン病の合併症により64歳で死去。彼の最後のショーは2017年11月23日にウルヴァーハンプトンのウルフルン・ホールで行われ、2018年5月23日にはカリフォルニア州アゴーラヒルズのザ・キャニオンで元メンバーのリッチー・コッツェンを特別ゲストとして追悼ショーが行われました。

同年10月、エリック・マーティンがバンドがその時点で考えられる次の最後のアルバムを計画中であると語りました。バンドはその責務を終えたらその後解散する予定だったこともあきらかにしています。しかし実現することはなく、バンドは冬眠状態に入り、バンドメンバーは他のプロジェクトに時間を費やしました。

2022年8月、ビリー・シーンはバンドが2023年にマット・スターをバンドのドラマーとして復帰させてショーを行うことを「強く検討している」と明らかにしましたが、2023年3月、Nick D’Virgilio(ニック・ディヴァージリオ)が2023年から2024年の『The BIG Finish Tour』のツアー・ドラマーとしてバンドに参加することが発表されました。

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洋楽まっぷ編集部

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