プロフィール

Aretha Franklin(アレサ・フランクリン)のプロフィール、歌詞一覧、アルバム・シングルを網羅したディスコグラフィーをご紹介。最新の洋楽はここからチェック。
Aretha Franklin(アレサ・フランクリン)は、テネシー州メンフィス出身のシンガー、ソングライター、女優、ピアニスト、公民権活動家。
これまでに『The Queen of Soul(ソウルの女王)』として多くの賞を受賞し、いくつかの殿堂入りを果たしている。2010年発行の「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」で1位、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」で9位、2013年にはビルボードが史上最高の女性R&Bアーティストに指名している。
テネシー州メンフィス、ルーシー・アベニュー406番地にある実家で生まれた。父親のClarence LaVaughn Franklin(クラレンス・ラヴォーン・フランクリン)はミシシッピ州シェルビー出身のバプテスト派の巡回牧師で、母親のBarbara Vernice Siggers Franklin(バーバラ・ヴァーニス・シガーズ・フランクリン)は才能に恵まれたピアノ奏者でありゴスペル歌手。その影響もあり、ミシガン州デトロイトにあるニューベテル・バプテスト教会でゴスペルを歌う子供としてキャリアをスタートさせた。
アレサが2歳の時、一家はニューヨーク州バッファローに引っ越した。アレサが5歳になる頃、C. L. フランクリンは一家をミシガン州デトロイトに永住させ、ニュー・ベテル・バプテスト教会の牧師職を引き継いだ。
1961年、18歳のときにポップスをやってみたいと父親に打ち明け、ニューヨークに移住。父親はマネージャーを務めながら支援し、2曲のデモ制作を作った。このデモがコロムビア・レコードの注目を集め、1960年に契約。アレサの最初のシングル「Today I Sing the Blues」は1960年9月にリリースされ、後にビルボードのHot Rhythm & Blues Sellersチャート(現在のHot R&B/Hip-Hop Songs)のトップ10入りを果たした。
その後コンスタントに楽曲をリリースするもレコードは商業的な成功を収めるまでには至らなかったため、結局1966年11月、アレサのコロンビア録音契約が失効。
翌1967年にアトランティック・レコード)に移籍した。
さっそく「I Never Loved a Man (The Way I Love You)(貴方だけを愛して)」をレコーディングするが、マネージャーで夫のTed White(テッド・ホワイト)とスタジオのオーナーでありホーン奏者であるRick Hall(リック・ホール)との間で口論になり、セッションは中止、彼女のFAMEでのレコーディングは1曲のみとなってしまう。
しかし、楽曲は翌月にリリースされ、R&Bチャートで初めて1位を獲得し、ビルボードホット100でも9位を記録。アレサにとって初のトップ10入りを果たしたポップ・シングルとなり、続くシングル「Respect」は、R&Bチャートとホット100の両チャートで1位を獲得し、全英チャートでもトップ10入りを果たす。
シングルの世界的な成功によって彼女の代表曲のひとつとなり、後に公民権とフェミニストの賛歌として賞賛された。第10回グラミー賞では4つの部門にノミネートされ、女性R&Bソロ・ボーカルパフォーマンス賞、最優秀リズム・アンド・ブルース・パフォーマンス賞の2冠を手にする。同年リリースされたアトランティック・レコードでは初のアルバム『I Never Loved a Man the Way I Love You(邦題:貴方だけを愛して)』も商業的に成功し、RIAAでゴールド認定を受けるヒットとなった。
以降次々と代表曲となるヒットを生み出すも70年代後半にかけて下火となってしまい、1979年に会社を去ることになり、翌年アリスタ・レコードに移籍。
80年代に入るとダンスポップ、シンセポップ、コンテンポラリーR&B、クロスオーバーアピールのポップソングなど、1980年代半ばの人気ジャンルを盛り込んだ楽曲もリリースするようになり、映画『ブルース・ブラザーズ』に出演するなど活動の幅も広がる。
1987年にはロックの殿堂入りした最初の女性になり、90年代に入るとアポロシアターでミュージカル「ウィズ」でエムおばさん役を務めたり、1998年には映画『ブルース・ブラザーズ』の続編『ブルース・ブラザース2000』に再び出演。2000年代後半からは入退院を繰り返すようになり、そんな中でも当時のアメリカの大統領、バラク・オバマ氏の大統領就任式で「My Country, 'Tis of Thee」をパフォーマンスし国際的な注目を集めた。
2017年には最後となるツアーを発表。2017年11月7日、ニューヨークのセント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂で行われたエイズ支援基金が25周年のガラパーティーが最後の公演となった。
2018年8月、デトロイトのリバーフロント・タワーズにある自宅で重病であると報告され、この時すでにホスピスケアを受けており、友人や家族に囲まれていた。2018年8月16日に自宅で76歳、遺言なしに亡くなった。追悼式はニュー・ベセル教会で行われ、チャールズ・H・ライト・アフリカ系アメリカ人歴史博物館で行われたお別れの会では数千人が敬意を表した。
アレサはキャリアを通して数々の栄誉を受けた。グラミー賞は44回のノミネートのうち18回受賞。その中には、最優秀女性R&Bボーカル・パフォーマンス賞(1968年から1975年)の最初の8回受賞、グラミー・リビング・レジェンド賞、生涯功労賞などが含まれる。
さらに、全米芸術賞と大統領自由勲章も受賞した。ロックの殿堂入り以外の殿堂入りとしては、2005年の英国音楽の殿堂、2012年のゴスペル音楽の殿堂、そして死後2020年に全米女性の殿堂が挙げられる。2019年、ピューリッツァー賞の審査員は「50年以上にわたるアメリカの音楽と文化への消えることのない貢献」に対して彼女に死後特別表彰を授与した。