Fugees(フージーズ)が15年ぶりに再結成!90年代を圧巻した伝説の歴史をプレイバック

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洋楽コラム

Fugees(フージーズ)が再結成!伝説の歴史をプレイバック

1990年代に大人気だった3人組ヒップホップグループFugees(フージーズ)

2021年は大ヒットアルバム「The Score(ザ・スコア)」のリリースから25年。その25周年を祝うワールド・ツアーを行うため、グループの活動としては2005年以来となる再結成をすることが発表されました。

世界的人気がありながら実際の活動期間が短いフージーズ。その伝説の歴史えおプレイバックしていきたいと思います。

フージーズ伝説の歴史をプレイバック

フージーズはリーダーのWyclef Jean(ワイクリフ・ジョン)、Pras Michel(プラーズ・ミシェル)、Lauryn Hill(ローリン・ヒル)の3人組。

ワイクリフ・ジョンはハイチ出身、ブラーズはワイクリフ・ジョンのいとこにあたり、ブルックリン出身ですが両親がハイチ。そしてローリン・ヒルはニュージャージー出身とルーツはそれぞれ違います。ブラーズはすぐにニュージャージー州へ引っ越し、ニュージャージー州メープルウッドのコロンビア高校でローリン・ヒルと出会いました。

2人は共通の友人と3人で「Tyme(タイム)」という名前のミュージック・トリオを結成。その後ワイクリフ・ジョンが加わった後共通の友人は抜けたため、1990年に現在のトリオになります。

そのわずか3年後、Ruffhouse Recordsと契約。コロムビア・レコードを通じてデモ音源が配布され、その際にトリオ名を「Fugees(フージーズ)」に変更します。この名前はハイチ系アメリカ人(難民)を指すためにしばしば軽蔑的に使用される単語「refugee(レフュジー)」から来ています。

トリオはすぐに音楽の方向性を変え、今では50年以上のキャリアを持つソウルバンド、Kool & the Gang(クール&ザ・ギャング)のプロデューサーで昨年亡くなったRonald Bell(ロナルド・ベル)の指導の下、デビュー・スタジオ・アルバム「Blunted on Reality(ブランテッド・オン・リアリティ)」を制作します。レコーディングが行われたのは1992年でしたが、レコードレーベルとの論争のため、アルバムは1994年2月1日までリリースされませんでした。

ここで日本と海外での知名度のズレがありますが、ローリン・ヒルが出演したことで話題となった映画「天使にラブ・ソングを2」は、日本での公開はアルバムがリリースされた後の1994年、そしてアメリカやイギリスなどではアルバムがリリースされる前の1993年に公開されています。

実はトリオ結成後からマンハッタンで演技のレッスンも受けており、1991年には演技でのキャリアもスタートされていました。ブロードウェイの公演に参加し、その後人気の海外ドラマ「アズ・ザ・ワールド・ターンズ」に出演。そこから映画出演へと続きます。

つまり日本ではフージーズとしてデビューした後に映画出演を果たしたという認識になっている方が多く、本来は映画出演の方が先だった、というのが事実です。

結果デビュー作はレビューも商業的にも惨敗という結果に終わりますが、2枚目のシングル「Nappy Heads(ナッピー・ヘッズ)」が成功し、ビルボードダンスチャートで1位、ビルボードホット100にも49位に初めてランクインする結果となりました。

Fugees – Nappy Heads – YouTube

レーベルはトリオにもう一度チャンスを与えることに決め、1995年、トリオに135,000ドルの制作資金を前払いで与え、フォローアップアルバムの完全な芸術的コントロールを彼らに与えました。トリオはそのお金を録音機器に使用し、ワイクリフ・ジョンの叔父の地下室にスタジオを設置しました。これをブーガ地下室と呼びました。

落ち着いた環境で楽曲制作、レコーディングに取り組めたことでサンプリングのアイデアや意表を突いたカバーなど多彩な作品に仕上がりました。それが2枚目のスタジオ・アルバム「The Score(ザ・スコア)」です。

同年12月にリリースしたリードシングル「Fu-Gee-La」はRamsey Lewis(ラムゼイ・ルイス)の「If Loving You Is Wrong, I Don’t Want To Be Right」、Teena Marie(ティーナ・マリー)の「Ooo La La La」をサンプリングし、Poor Righteous Teachers(プア・ライチャス・ティーチャーズ)の「Shakiyla (JRH)」の補間を含んだ衝撃的な曲になっており、アメリカでは初めてRIAAでプラチナ認定を受けるヒットとなりました。

Fugees – Fu-Gee-La – YouTube

翌1996年にリリースされた「The Score(ザ・スコア)」は1996年の最大のヒット曲の1つであり、史上最も売れたヒップホップアルバムの1つになりました。全世界でのトータルセールスは2200万枚、第39回グラミー賞では最優秀アルバム賞にノミネート、最優秀ラップ・アルバム賞を受賞、トリオ最大のヒットシングルとなった収録曲「Killing Me Softly(邦題:やさしく歌って)」※Roberta Flack(ロバータ・フラック)のカバー。※では最優秀リズム・アンド・ブルース・パフォーマンス賞ヴォーカル入りデュオまたはグループ部門を受賞しました。

Fugees – Killing Me Softly With His Song – YouTube

しかし人気絶頂の中フージーズは1997年に突然解散します。しばらく具体的な理由については明かされていませんでしたが、2012年にワイクリフ・ジョンが自伝を出版し、ローリン・ヒルとの関係が原因だったことを告白しています。

その後それぞれソロ活動をスタートさせますが、ローリン・ヒルは「The Miseducation of Lauryn Hill(ザ・ミスエデュケーション・オブ・ローリン・ヒル)」が全世界で2000万枚以上も売り上げ世界中での人気を獲得します。

しかし今年に入り、レーベルとの関係が良好でなかったことを発言しており、さらに知名度や人気が自身の想像を超えるものだったことが精神的に不安定にさせていたことも告白しています。

1997年の解散から数年後の2004年。ベッドフォードシュタイベサントでのコンサートで3人が再会しパフォーマンスを行います。翌2005年にもBETのミュージックアワードにほぼ10年ぶりにテレビ出演し、パフォーマンスを披露しました。

それから約15年後の今年、フージーズはアルバム「ザ・スコア」の25周年を祝う再会ツアーを発表。12都市の国際ツアーは水曜日に始まり、ニューヨーク市の非公開の場所で小さなポップアップショーが開催されます。

彼らの最初の公演は日本時間9月26日に行われる国際支援団体グローバル・シチズン主催のチャリティ型フェスティバル「Global Citizen Live」。多くのアーティストが参加する中トリオが約15年ぶりに復活します。

Fugees – Killing Me Softly With His Song – YouTube

伝説はわずか数年で終わってしまったグループですが、1990年代の最も重要なオルタナティブヒップホップグループとしての歴史は変わらず、今後のフージーズにも注目です。

WRITER

酒井裕紀

洋楽まっぷ管理者。米・英の音楽チャートなどのデータを好み、70年代から最新の洋楽までヒット曲なら幅広い知識を持つ。時代毎の良さがある洋楽の魅力を少しでもわかりやすくご紹介できればと思います。

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