【洋楽】カントリー・ミュージックの歴史【1940年代編】

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洋楽コラム

【洋楽】カントリー・ミュージックの歴史【1940年代編】
IMAGE VIA:You Need to Visit Robert's Western World in Nashville

このシリーズではカントリー・ミュージックの歴史をその起源から掘り下げながら解説していきます。今回は1940年代の歴史をご紹介。

カントリー・ミュージックという言葉は1940年代までは「田舎者」を意味するヒルビリー・ミュージックとも呼ばれ、ブルース、南部のゴスペルやスピリチュアルなどの教会音楽、オールドタイム、アパラチア、ケイジャン、クレオールなどのアメリカン・フォークに端を発し、これに並行して、ニューメキシコ、レッドダート、テハーノ、テキサスカントリーなどを由緒に発展したウエスタン・ミュージック(西部劇音楽)を包括する大衆音楽のジャンルです。

洋楽という括りの中でも日本ではあまり耳にしない曲も多いですが、全米ビルボードではカントリーの専門チャートがあるくらい確立されています。

【洋楽】カントリー・ミュージックの歴史【1940年代編】

 
1930年代前半に世界を襲った大恐慌を終わらせたのは第二次世界大戦勃発(1939)とそれに伴う軍需産業の拡大でした。テレビが登場する以前、ラジオが家族の娯楽のひとつでした。その中で最も人気があったのが、現在も続く『Grand Ole Opry(グランド・オール・オプリ)』と呼ばれるカントリー・ミュージックのライブバラエティ番組であり、カントリー・ミュージックビジネスの中心地となったテネシー州ナッシュビルから放送されていました。

ウエスト・コーストやニューヨークでもカントリー・ミュージックがある程度受け入れられるようになり、バーン・ダンスがシカゴを始めとする中西部でも注目をあびるようになって来ました。しかし、カントリー・ミュージックの支持者が圧倒的に多かったのは南部でした。

極めて地域的偏向性を持っていたカントリー・ミュージックが、第二次世界大戦を機に全国的現象となって行きました。アメリカ人の生活の速度を速め、田舎の共同体を解体、人々は兵役に就き、軍需産業に従事するなどして大量に移動するようになります。特に南部の貧しい黒人・白人小作農が貧弱な農場を捨て、デトロイト、シカゴ等北部の都市に向かって移住して行きました。

1930年代末から1940年代初頭にかけて北部の諸都市においてカントリー・ミュージックが盛んになったのは、南部の人々が、軍需産業の仕事を求めて北部の大都市へ流入したのが理由でした。流入の拡大と共に、彼ら好みの音楽、カントリー・ミュージックを聴かせる酒場が多くなり、その普及の主役は店に設置されたジューク・ボックスで、1943年の記録では、カントリー・ミュージックのレコードは他のどの種類のレコードよりも人気があったと云います。

1930年代半ば、大恐慌、旱魃(ダストボウル)によってオクラホマを逃れた大量の貧しい避難民、Okie(オーキー)がカリフォルニア州、特に南部に殺到し、カントリー・ミュージックの人気が急激に高まりました。全米各地から招集された兵隊は各地で混じりあい、カントリー・ミュージックの普及が大いに促進されました。ここにおいても、安価な娯楽としてジューク・ボックスが重要な役割を果たしたことになります。

こうして、行き場のない黒人農村労働者を対象に音楽、ダンス、ギャンブル、飲酒を提供する「Juke」+「Joint」=「ジューク・ジョイント(Juke Joint)」が農村、田舎の交差点に出現しました。Paul Oliver(ポール・オリバー)は「(ジューク・ジョイントは)白人やその日の圧力から逃れたい黒人にとって最後の隠れ家、最後の砦」であったと書いています。Steven Spielberg(スティーヴン・スピルバーグ)が監督を務めた1985年の映画『カラーパープル(原題:Color Purple)』や、昨年公開されたばかりの映画『エルヴィス(原題:Elvis)』にジューク・ジョイントが描かれています。

Robert Johnson(ロバート・ジョンソン)、Son House(サン・ハウス)、Charlie Patton(チャーリー・パットン)など、初期のブルース・ミュージシャンは、ジューク・ジョイントを巡り生計を立てていました。この辺りにジューク・ボックスの起源があるように思えますが、如何でしょうか。

カントリー&ウエスタンミュージック

1940年代にかけて、ナッシュビルの経営陣は、オールドタイム音楽のヒルビリーイメージよりもカウボーイイメージの方がカントリー・ミュージックには適していると判断しました。そして、このジャンルを「カントリー&ウエスタンミュージック」と改名し、ミュージシャンたちにカウボーイの服を着せ始めました。

一方、テキサス、オクラホマ、カリフォルニアでは、ウェスタン・スウィングと呼ばれるスタイルのダンスミュージックが人気を博しました。ウェスタン・スウィングのバンドは、ペダル・スティール・ギターなどアンプを使い、大きなダンスホールで聴けるような大きな音で音楽を奏でました。彼らの音楽は、ウェスタン・カントリー・ミュージックとスイング・ジャズをミックスしたような躍動感のあるもので、最も人気のあるバンドの一つがBob Wills and The Texas Playboys(ボブ・ウィルズとテキサス・プレイボーイズ)でした。このウエスタン・スイングが南部のブルースと融合、加えてランチャ音楽の影響を強く受け、ホンキートンクミュージックへと発展、50年代になると、リズム&ブルースと融合してロカビリーが生まれることになります。

楽器の変遷

ドラムは初期のカントリー・ミュージシャンから「うるさすぎる」、「純粋ではない」と軽蔑されていましたが、1935年にはウェスタン・スウィングのビッグバンドのリーダー、ボブ・ウィルスはテキサス・プレイボーイズにドラムを加えました。1940年代半ばには、『グランド・オール・オープリー』はテキサス・プレイボーイズのドラマーをステージに登場させておらず、それよりも保守的ではないはずのラジオ番組『ルイジアナ・ヘイライド』さえも、1956年の終わりでさえ、ドラマーをステージの後ろに配置していました。しかし、1955年にはロカビリー・グループでドラムが使われるようになり、1960年代初頭に至っては、カントリー・バンドにドラマーがいないことは珍しくなくなりました。

ボブ・ウィルスは、1938年に自分のバンドにエレキギターを加えた最初のカントリー・ミュージシャンの一人として知られています。その10年後の1948年、 Arthur Smith(アーサー・スミス)がMGMレコードに録音した「Guitar Boogie」でアメリカのカントリーチャートのトップ10入りを果たしたしただけでなく、ポップチャートにも入り込んで多くの人々にエレキギターの潜在能力を紹介することとなりました。ナッシュビルのセッション・プレイヤーたちは、数十年にわたりGibsonやGretschの暖かい音色のエレキを好んでいました。Fenderがカントリーの代表的なギターサウンドとして広まるのは1950年代に入ってからの事です。

Arthur Smith – Guitar Boogie – YouTube

ヒルビリー・ブギー

カントリー・ミュージシャンによるブギーは、1939年、Johnny Barfield(ジョニー・バーフィールド)が「Boogie Woogie」を録音したことに始まります。当初はヒルビリー・ブギー、またはオーキー・ブギー(後にカントリー・ブギーと改名)と呼ばれていたものが、1945年後半から洪水となりました。

Johnny Barfield – Boogie Woogie – YouTube

この時期の注目すべきリリースは、Delmore Brothers(デルモア・ブラザーズ)の「Freight Train Boogie」で、カントリー・ミュージックとブルースのロカビリーへの複合的進化の一部と考えられています。

Delmore Brothers – Freight Train Boogie – YouTube

1948年、 Arthur “Guitar Boogie” Smith (アーサー”ギター・ブギー”・スミス)はMGMレコードで録音した「Guitar Boogie」と「Banjo Boogie」でアメリカのカントリーチャートのトップ10に入り、前者はアメリカのポップチャートにも入りました。他のカントリー・ブギーのアーティストにはMoon Mullican(ムーン・マリキャン)、Merrill Moore(メリル・ムーア)、Tennessee Ernie Ford(テネシー・アーニー・フォード)がいました。ヒルビリー・ブギーの時代は1950年代まで続き、21世紀に入ってもカントリーの多くのサブジャンルの1つとして残っています。

ブルーグラス、フォーク、ゴスペル

第二次世界大戦(1939-1945)の終わり頃、『グランド・オール・オープリー』でRoy Acuff(ロイ・エイカフ)の紹介でLester Flatt(レスター・フラット)、Earl Scruggs(アール・スクラッグス)とともにBill Monroe(ビル・モンロー)が参加し、ブルーグラスと呼ばれる「mountaineer」のストリングス・バンド音楽が出現しました。これがブルーグラス音楽の起源であり、ビル・モンローが“ブルーグラスの父”と呼ばれるようになったきっかけです。ギター、バンジョー、マンドリン、フィドル、ベースなどの弦楽器をフィーチャーし、ヴォーカルは通常、2部、3部、4部のハーモニーで歌われました。

ゴスペルもまた、ブルーグラグランド・オール・オープリー・ミュージックの人気要素として存在していました。第二次世界大戦後の最大のカントリースター、Red Foley(レッド・フォーリー)は、最初のミリオンセラーとなったゴスペルの「Peace in the Valley」のヒットを放ち、ブギー、ブルース、ロカビリーも歌いました。

戦後(1945以降)、カントリー・ミュージックは業界外では「フォーク」、業界内では「ヒルビリー」と呼ばれていました。1944年、ビルボード誌は「ヒルビリー」を「フォークソングとブルース」に変更、1949年には「カントリー」もしくは「カントリー&ウエスタン」に変更しました。

ホンキートンク

30年代編でもご紹介したホンキートンクは、客の娯楽のためにカントリー・ミュージックを提供するバーであり、そのような施設で演奏される音楽のスタイルを指します。また、そのような音楽を演奏するために使用されるピアノの種類(タックピアノ)を示すこともあります。この種のバーは、アメリカ南部や南西部に多く見られ、Jimmie Rodgers(ジミー・ロジャース 1897-2022)、Loretta Lynn(ロレッタ・リン 1967-1980)、Patsy Cline(パッツィ・クライン 1932-1963)、Ernest Tubb(アーネスト・タブ 1914-1984)、Johnny Horton(ジョニー・ホートン 1925-1960)、Merle Haggard(マール・ハガード 1937-2016)など、多くの著名なカントリー・アーティストはホンキートンクでアマチュア・ミュージシャンとしてキャリアをスタートさせました。

カウボーイとウエスタン・ミュージックが人気のあるスタイルであったのに対し、ダンスホール音楽から始まったカントリーとジャズのミックスは、後にウェスタン・スウィングとなり、南部のブルースと融合、加えてランチャ音楽の影響を強く受け、ホンキートンク・ミュージックへと発展していきました。ギター、フィドル、ストリング・ベース、スティールギターなどの楽器が使われ、歌詞は失恋、不倫、孤独、アルコール中毒、自己嫌悪などの悲劇的テーマに焦点を当てたものとなっています。

ホンキートンクは、ラグタイムと同じように、メロディーやハーモニーよりもリズムを重視したピアノ演奏のことで、ピアノが手入れされず、調律が乱れ、鍵盤も一部機能していないという環境の中で発展した音楽です。

ホンキートンクはブギウギピアノのスタイルに影響を与え、それはJelly Roll Morton(ジェリー・ロール・モートン)の1938年のレコード「Honky Tonk Music」やMeade Lux Lewis(ミード・ラックス・ルイス)のヒット曲「Honky Tonk Train Blues」が示しています。後者は1927年から1950年代にかけて何度も録音され、Oscar Peterson(オスカー・ピーターソン)をはじめ多くのミュージシャンにカバーされました。

Jelly Roll Morton: Honkey Tonk Music – YouTube

Mead Lux Lewis plays “Honky Tonk Train Blues” – YouTube

Bill Doggett & His Combo(ビル・ドゲット & ヒズコンボ)による12小節のブルース・インストゥルメンタル「Honky Tonk」は、しなやかなサックスのラインとドライブ感のあるスロービートで、初期のロックンロールのヒット曲となりました。

ニューオーリンズ出身のFats Domino(ファッツ・ドミノ)もホンキートンクのピアノマンで、「Blueberry Hill(1940年代~50年代に流行)」や「Walkin’ to New Orleans(1960)」はギター、フィドル、ストリングスベース、スティールギターなどをフィーチャーしたものでした。ヴォーカルでは、シンガーソングライターのFloyd Tillman(フロイド・ティルマン、1930年代、40年代に活躍)やHank Williams(ハンク・ウィリアムス、1937-53年に活躍)に代表されるように、もともとは荒削りで鼻声でしたが、後にGeorge Jones(ジョージ・ジョーンズ)やFaron Young(ファロン・ヤング)のようなクリアで鋭いサウンドを展開するようになりました。

歌詞は労働者階級の生活に焦点を当てたものが多く、失恋、不倫、孤独、アルコール依存症、自己憐憫など悲劇的なテーマが多く見らえます。

第二次世界大戦(1939-1945)前、音楽業界では、テキサスやオクラホマから西海岸にかけて演奏されるヒルビリー音楽を「ホンキートンク」ミュージックと呼んでいましたが、戦後はカントリー・ミュージックの主要なサウンドを指すようになりました。

ホンキートンク・スタイルの初期の成功者の一人が、テキサス州クリスプ出身のErnest Tubb(アーネスト・タブ)で、彼は1930年代半ばから後半にかけてテキサスのいくつかのラジオ局でそのスタイルを完成させました。

1940年、彼はデッカ・レコードと録音契約を結び、その1年後にスタンダード曲「Walking the Floor Over You」をリリースしました。このシングルはヒットとなり、100万枚以上を売り上げました。彼はジミー・ロジャースのファンで、長年エレキギターを使用し、ウェスタン・スウィングを他の「カントリー」サウンドと融合させ、このサウンドをナッシュビルに持ち込みました。彼は『グランド・オール・オープリー』でエレキギターを演奏した最初のミュージシャンでした。10年後、このスタイルはFloyd Tillman(フロイド・ティルマン)やHank Williams(ハンク・ウィリアムス)に継承され、1940年代の終わりにはカントリー音楽の主流となりました。

Ernest Tubb – Walking The Floor Over You – YouTube

アラバマ州バトラー郡出身のハンク・ウィリアムスは、ソングライターとして、またパフォーミングアーティストとして高い評価を得るようになりました。伝統的なホンキートンクをテーマに、彼は史上最も重要なカントリー・パフォーマーの一人にまで成長しました。1949年に録音した「Lovesick Blues」(1949年、ティンパンアレイソングとして1922年に初見)とその裏面である「I’m So Lonesome I Could Cry」)は、今日においてもカントリー・ミュージックとポピュラー・ミュージックの両方で画期的な出来事となっています。

しかし、1940年代後半になっても、ハンク・ウィリアムスが大酒を飲んでいたことはよく知られており、1950年代が明けると、彼の個人的な問題はさらに大きくなっていくことになります。にもかかわらず、彼の全体的なスタイルは、カントリーやロックなど他のスタイルの音楽の無数のアーティストにインスピレーションを与え、彼の曲は多くのスタイルのアーティストによってカバーされることになります。

1945年8月25日、Jenny Lou Carson(ジェニー・ルー・カーソン)は、Tex Ritter(テックス・リッター)が演奏した「You Two-Timed Me One Time Too Often」がビルボードのMost Played Juke Box Folk Recordsで首位を獲得し、女性として初めてカントリー・ミュージックで第1位のヒット曲を書きました。

1949年にはソングライターとして、Eddy Arnold(エディ・アーノルド)の「Don’t Rob Another Man’s Castle」がFolk Best Seller Chartsの首位を獲得し、再び第1位となるヒット曲を作り、1945年から1955年まで、カントリー・ミュージック界で最も多くの曲を作ったソングライターの一人となりました。実際、1944年1月8日付けのビルボード誌の最初の「Most Played Juke Box Folk Records」チャートで1位となった曲は、The Andrews Sistersの「Pistol Packin’ Mama」でBing Crosby (ビング・クロスビー)と共同クレジットされています。

1949年、 Margaret Whiting(マーガレット・ホワイティング)はJimmy Wakely(ジミー・ウェイクリー)と組んで、Floyd Tillman(フロイド・ティルマン)の曲「Slippin’ Around」をカバーし、カントリー&ポップスのNo.1ヒットとなりました。Kitty Wells(キティ・ウェルズ)は夫のJohnnie Wright(ジョニー・ライト)やデュエット相手のJack Anglin(ジャック・アングリン)と共演し、コンサートの人気者でした。その他、Patsy Montana(パッツィー・モンタナ)、Martha Carson(マーサ・カーソン)、The Maddox Brothers and Rose(マドックス兄弟とローズ)、Molly O’Day(モリー・オデイ)と Cumberland Mountain Folks(カンバーランド・マウンテン・フォークス)、Lulu Belle(ルル・ベル)などが人気の女性アーティストで、Maybelle Carterは娘のAnita(アニタ)、June(ジューン)、Helen(ヘレン)とCarter Family(カーター・ファミリー)を結成し、やがて人気が高まることになります。

Tennessee Plowboy(テネシー・プラウボーイ)として知られるEddy Arnold(エディ・アーノルド)のスタイルは、洗練されたホンキートンクの要素と大衆音楽のサウンドを組み合わせたもので、「That’s How Much I Love You」、「I’ll Hold You In My Heart (’Til I Can Hold You In My Arms)」、「Anytime」「Boquet of Roses」などのヒット曲に顕著で、これらの曲はビルボード・カントリーとポップ・チャートに共にランクインしています。1948年には、ビルボードのカントリーチャートで、その年の6曲中5曲がエディ・アーノルドの名前で1位を獲得するほど圧倒的な存在感を示し、この記録は26年後にCharlie Rich(チャーリー・リッチ)が更新するものの、それ以外は比類なきものとなっています。アーノルドは、2008年に亡くなるまでの間に、150曲以上のチャートヒットを記録しています。

まとめ

カントリー・ミュージックの1940年代の歴史をご紹介しました。

世界を襲った大恐慌から戦争に突入した1930年代を経て、ジャンルの確立から進化、そして生き抜いたカントリー・ミュージシャンなど歴史を語るうえで欠かせない出来事も多くありました。

次回は1950年代の歴史を振り返っていきます。

シリーズ【カントリー・ミュージックの歴史】
【洋楽】カントリー・ミュージックの歴史【起源編】
【洋楽】カントリー・ミュージックの歴史【1930年代編】

WRITER

ISAO

1920年代以来、ハリウッド映画、ジャズ、ブロードウェイと「Tin Pan Alley」音楽の時代でしたが、ラジオ放送開始と共にポピュラー音楽の時代が到来、後にはメンフィスに生まれたロックンロールを介して、米国は長らく世界のサブカルチャー(大衆娯楽文化)を支配して来ました。…が、ビートルズを機に「British Invasion(英国の侵略)」が始まり、世界に革命的な衝撃を与えました。このような大きな節目、歴史的転換期に遭遇したISAO(洋楽まっぷ専属ライター)が思いついたことを、気の向いたままに、深く掘り下げていきます。

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