【洋楽】カントリー・ミュージックの歴史【1930年代編】

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洋楽コラム

このシリーズではカントリー・ミュージックの歴史をその起源から掘り下げながら解説していきます。今回は1930年代の歴史をご紹介。

カントリー・ミュージックという言葉は1940年代までは「田舎者」を意味するヒルビリー・ミュージックとも呼ばれ、ブルース、南部のゴスペルやスピリチュアルなどの教会音楽、オールドタイム、アパラチア、ケイジャン、クレオールなどのアメリカン・フォークに端を発し、これに並行して、ニューメキシコ、レッドダート、テハーノ、テキサスカントリーなどを由緒に発展したウエスタン・ミュージック(西部劇音楽)を包括する大衆音楽のジャンルです。

洋楽という括りの中でも日本ではあまり耳にしない曲も多いですが、全米ビルボードではカントリーの専門チャートがあるくらい確立されています。

【洋楽】カントリー・ミュージックの歴史【1930年代編】

世界恐慌の影響

1930年代前半、世界を襲った大恐慌はカントリー音楽業界にも及び、1927年には1億4千万枚だった売り上げが1933年にはたったの600万枚に激減、最悪の1933年頃にはレコードの売れ行きの悪い歌手・演奏者は契約を切られました。

大恐慌の間、レコードの売り上げは激減しましたが、ラジオは人気のある娯楽源となり、カントリー・ミュージックを特集した「バーン・ダンス」ショーが、シカゴを北限として、西はカリフォルニアまでの南部全域のラジオ局によって開始されました。

最も重要なのは、1925年にナッシュビルのAMラジオ局、WSMで放送が開始され、世界で最も長く放送され、今日まで続いている公開ライブ放送の番組『Grand Ole Opry(グランド・オール・オプリ)』でした。

Grand Ole Opry
IMAGE VIA:A Grand Ole Milestone

グランド・オール・オープリーの初期のスターには、Uncle Dave Macon(アンクル・デイブ・メイコン)、Roy Acuff(ロイ・エイカフ)、アフリカ系アメリカ人のハーモニカ奏者DeFord Bailey(デフォード・ベイリー)などがいました。

Uncle Dave Macon – “Take Me Back To My Old Carolina Home” – YouTube

WSMの50,000ワットの信号(1934年当時)は、しばしば全米30州ほどで聞くことができました。多くのミュージシャンが、様々なスタイルの曲を演奏し、それを録音しました。例えば、Moon Mullican(ムーン・マルリカン)はウェスタン・スウィングを演奏していましたが、その後ロカビリーと呼べるような曲もレコーディングしています。

大恐慌の時代とはいえ、ヒルビリー歌手・演奏者の録音は続けられ、新人が絶えず発掘されていました。売り上げ規模は小さくとも録音費用が少なく済むことから、ヒルビリーは依然商売になりました。田舎の住民にとって音楽は生活の一部、収入は減っても、多くの家庭はヒルビリーレコードを買ったといいます。1930年代後半になると、ジュークボックスが出現、1934年禁酒法が廃止となり、ビアホール、酒場が開店、これに付随してジュークボックスが売れ、南部・南西部への一層の普及につながったといわれています。

カントリー・ミュージックとラジオ

1930年代はやはりラジオが需要な役割を果たしました。南部・中西部の放送局が益々ヒルビリー音楽の人気に注目するようになり、自社製品の宣伝の為にヒルビリー番組のスポンサーとなる企業が現れるようになりました。

出力の大きい放送局がヒルビリー音楽を特集、この音楽が一層多くの人々の実耳に達するようになりました。極めつけはメキシコ国境(メキシコ側)に在るいくつかの大出力のラジオ放送局(メキシコではXEまたはXHで始まるコールサインを放送局に割り当てていたことから通称、X局と呼ばれる)からアメリカ合衆国の広範な地域に電波が届き、商品の宣伝とともにこの音楽の益々の普及に繋がりました。X放送局の増加は、早朝の聴取者である農家の人だけでなく、トラックの運転手や夜勤の労働者なども聞くことが出来、一層人気を得ることになりました。

この流れに大きく貢献していたのがW. Lee O’Daniel(W・リー・オダニエル)。彼はソングライターでありながらテキサス州知事に当選した際にボーダー・ブラスター(実際には別の国をターゲットにするために使用される放送局のこと)を使用しました。

カントリー・ミュージックとウエスタン・ミュージック

1930年代には、1920年代から録音されていたカウボーイ・ソングやウエスタン・ミュージック(西部劇音楽)が、ハリウッドで作られた映画によって一般化されました。「歌うカウボーイ」の王様と呼ばれたGene Autry(ジーン・オートリー)やRoy Rogers(ロイ・ロジャース)、Hank Williams(ハンク・ウィリアムス)が人気でした。

Bob Wills(ボブ・ウィルス)は新しいバンド、The Playboys(ザ・プレイボーイズ)※後にTexas Playboys(テキサス・プレイボーイズ)に変更※を結成し、KVOOラジオ局で正午のショーを放送し始めると1930年代半ばから後半にかけてラインナップを拡大し続け人気を博しました。1938年、エレキギターを手にした最初のカントリー・ミュージシャンとしても知られ、カウボーイ・ソングやウエスタン・ミュージックは同じラジオ局で頻繁に一緒に演奏され、それゆえカントリーとウエスタンは異なるジャンルであるにもかかわらず、「カントリー&ウエスタン・ミュージック」という用語が生まれました。

Bob Wills and His Texas Playboys – Alexander’s Ragtime Band (1938) – YouTube

ウェスタン・スウィング

カウガールたちは、様々なファミリー・グループでこのジャンルに貢献しました。Patsy Montana(パッツィ・モンタナ)は1935年、歴史に残る曲「I Want To Be a Cowboy’s Sweetheart」で女性アーティストへの扉を開きました。この曲は、女性がソロで成功するチャンスを得るためのきっかけとなりました。

Patsy Montana – I Wanna Be A Cowboy’s Sweetheart – YouTube

ダンスホール音楽から始まったカントリーとジャズのミックスは、後にウェスタン・スウィングとして知られるようになります。ウェスタン・スウィングそのものは1920年代後半に西部および南部で、この地域の西部のストリング・バンドの中で生まれましたが、Cliff Bruner(クリフ・ブルーナー)、Moon Mullican(ムーン・マルリカン)、Milton Brown(ミルトン・ブラウン)、Adolph Hofner(アドルフ・ホフナー)も初期のウェスタン・スウィングのパイオニアでした。Spade Cooley(スペード・クーリー)やTex Williams(テックス・ウィリアムス)も非常に人気のあるバンドを持ち、映画にも出演していました。ウェスタン・スウィングの最盛期は、ビッグバンド・スウィングの人気に引けを取らないものでした。

ボブ・ウィルスはテキサス・プレイボーイズを結成する前、1930年にミルトン・ブラウンと共同で最初のプロのウエスタン・スウィング・バンド、Light Crust Doughboys(ライト・クラスト・ダウボーイズ)を結成しています。ミルトン・ブラウンは1932年後半にバンドを去ったことで分裂したようです。

ホンキートンク

ギター、ベース、ドブロやスチールギター(後にドラムも)などを基本にした、様々なムードを持つ、飾り気のない素朴な音楽が、特にTexhomex(テキソメックス)と呼ばれるテキサス、オクラホマ、ニューメキシコの3州の地方住民の間で人気を博すようになりました。

ホンキートンクとして知られるようになり、アメリカ南部のブルースとともに、ウェスタン・スウィングやメキシコと国境の州、特にニューメキシコとテキサスのランチェラ音楽がそのルーツとなりました。

ボブ・ウィルスとテキサス・プレイボーイズは、「あれもこれも、黒も白も…考え込まないように、そしてウィスキーを注文するためにちょうどいい音量」と評されるこの音楽を体現していました。テキサス東部のAl Dexter(アル・デクスター)は「Honky Tonk Blues」、その7年後には「Pistol Packin’ Mama」をヒットさせました。これらの「ホンキートンク」ソングは酒場に関連付けられ、Ernest Tubb(アーネスト・タブ)、Kitty Wells(キティ・ウェルズ)※初の主要女性カントリーソロシンガー※、Ted Daffan(テッド・ダファン)、Floyd Tillman(フロイド・ティルマン)、Maddox Brothers and Rose(マドックス・ブラザーズ&ローズ)、Lefty Frizzell(レフティ・フリザル)、Hank Williams(ハンク・ウィリアムス)などが演奏しました。これらのアーティストたちの音楽が後に「伝統的な」カントリーと呼ばれることになります。

特にハンク・ウィリアムスの影響は大きく、Elvis Presley(エルヴィス・プレスリー)、Jerry Lee Lewis(ジェリー・リー・ルイス)、Chuck Berry(チャック・ベリー)、Ike Turner(アイク・ターナー)といったロックンロールのパイオニアたちにインスピレーションを与え、George Jones(ジョージ・ジョーンズ)といったホンキートンクの才能ある新人に新たなジャンルを提供することになります。

ホンキートンクは常連客を楽しませるためにカントリー・ミュージックを提供するバーの総称でもあり音楽ジャンルの名称としても知られていますが、用語の起源は現在も議論されているようです。

Al Dexter – Honky Tonk Blues – YouTube

プロテストソングとオーキー

アメリカ社会には、南部の白人・黒人諸共同体ほどに、歌という形で自分たちの態度を表明する、即ちプロテストソングの伝統の強い共同体はないと云われています。この大恐慌の時代、1930年代には南部の音楽の中で抗議的な楽曲が重要な部分を占めていました。オクラホマ、アーカンソー、テキサス等旱魃に悩まされた乾燥地帯、ケンタッキー州の炭鉱地帯、南北カロライナ州での織物工場地帯では労働の過酷さ・貧困など社会問題を歌った多くの楽曲、プロテストソングのレコードが販売されました。

フォーク・ミュージシャンとして知られるWoody Guthrie(ウディ・ガスリー)はオクラホマ州オケマーに生まれ、両親から多くの民謡を教わり、15歳の時に、色んな仕事をしながら南西部を転々とし、叔父のジェフとバンドをつくり、演奏して廻りました。南西部は石油ブーム、同時にオクラホマ州はじめアメリカ中西部で深刻化したダストボウル(開墾によって発生した砂嵐)に見舞われた時、大恐慌の時でもありました。大変動の中で彼は幼い時から接してきた伝承の歌を基盤に、石油で急発展した南西部で生まれたホンキートンク・ミュージックの技巧を身につけ、次第にプロテストソングを本領とする歌手となりました。カリフォルニアではダストボウルに見舞われた同郷人の殺到を目の当たりにして、一層のプロテストシンガーになり、1939年にはニューヨークのフォーク・ミュージックファンの注目を浴び、フォーク運動の始祖的存在になって行きました。

不況、農業の機械化による借金、歴史的なダストボウルに見舞われたオクラホマ、アーカンソー、テキサス諸州の農家が家を失い、豊かな土地、カリフォルニアに望みを託し移住して行きました(ジョン・スタインベック『怒りの葡萄』)。しかし、カリフォルニアは期待していたような楽園でもなく、職も少なく、賃金も安かったのです。やって来た、彼らの宗教、考え方、話し言葉も違っており、しかも貧乏でした。カリフォルニアの人々は彼らを軽蔑してOkie(オーキー)と呼びました。

彼ら入植者を保護するキャンプには、地元カリフォルニアの住民がとっくに忘れてしまっていた歌が流れ、結果、移住して来た彼らが持ってきた歌がカリフォルニア南部に根を下ろすことになります。オーキーの住みついたベイカーズフィールドは西のナッシュビルに発展、その後、Buck Owens(バック・オーウエンス)、Merle Haggard(マール・ハガード)、Glen Campbell(グレン・キャンベル)を輩出しています。

まとめ

カントリー・ミュージックの1930年代の歴史をご紹介しました。

ジャンルの確立から他ジャンルの吸収など、地域に根付いた音楽とラジオの影響、世界恐慌の中で生き抜いたカントリー・ミュージシャンなど歴史を語るうえで欠かせない出来事も多くありました。

次回は1940年代の歴史を振り返っていきます。

シリーズ【カントリー・ミュージックの歴史】
【洋楽】カントリー・ミュージックの歴史【起源編】

WRITER

ISAO

1920年代以来、ハリウッド映画、ジャズ、ブロードウェイと「Tin Pan Alley」音楽の時代でしたが、ラジオ放送開始と共にポピュラー音楽の時代が到来、後にはメンフィスに生まれたロックンロールを介して、米国は長らく世界のサブカルチャー(大衆娯楽文化)を支配して来ました。…が、ビートルズを機に「British Invasion(英国の侵略)」が始まり、世界に革命的な衝撃を与えました。このような大きな節目、歴史的転換期に遭遇したISAO(洋楽まっぷ専属ライター)が思いついたことを、気の向いたままに、深く掘り下げていきます。

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