Elvis Presley(エルヴィス・プレスリー)は「キング・オブ・ロックンロール」と称されるソロでは最も成功したアーティストです。
ミュージシャンとしての多くのヒット曲を持つだけでなく、多くの映画作品にも主役で出演しており、今なお絶大な人気を誇るエンターテイナーとしての成功者です。
今回はElvis Presley(エルヴィス・プレスリー)の歴史「キング・オブ・ロックンロール」と称されるまでと題して8つの時代に凝縮して解説していこうと思います。
Elvis Presley(エルヴィス・プレスリー)のプロフィール
Elvis Presley(エルヴィス・プレスリー)はミシシッピ州テューペロ島出身の歌手、ミュージシャン、俳優。
全世界におけるCD・レコード・カセットなどの総売り上げが6億枚以上とされ、「世界史上最も売れたソロアーティスト」としては歴代1位を記録しており、他にも多くの記録を保持しています。
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Elvis Presley(エルヴィス・プレスリー)のキャリア
1935-1953 初期 Tupelo(テューペロ)での子供時代
Elvis Aron Presley(エルヴィス・アーロン・プレスリー)は1935年1月8日、Vernon Elvis(ヴァーノン・エルヴィス 1916-1979)とGladys Love(グラディス・ラブ 1912-1958)との間に、ミシシッピ州テューペロの小さな家(ショットガンハウス)で生まれました。一卵性双生児の兄弟で、1人は死産、プレスリーは両親、特に母親と仲が良かったそう。
家族はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教会に通い、そこで彼は最初の音楽のインスピレーションを得ました。母は家族の支配的な存在であり、父は定職もなく、ほとんど野心を持ちませんでした。家族はしばしば隣人の助けと政府の食糧援助に頼って生活していました。1938年、父が小切手を書き換えた罪で有罪となり、エルヴィスと母は親戚と一緒に家を追い出されました。
エルヴィス・プレスリーが最初に音楽的な影響を受けたのはゴスペルでした。彼の母親は2歳の頃から家族が参加したテューペロのアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教会で、「彼は私の膝から滑り降りて通路を走り、壇上に這い上がっていった」と回想しています。
1941年、エルヴィスはイースト・テューペロ・コンソリデーテッド・スクールでは平均的な存在で、朝の祈りの間にRed Foley(レッド・フォーリー)のカントリーソング「Old Shep」を歌って学校の先生に感銘を与え、以降地域の歌唱コンテストに参加するようになりました。
1945年、彼は誕生日に初めてギターを手にし、2人の叔父と家族の教会の新しい牧師から基本的なギターのレッスンを受けました。エルヴィス曰く「とても恥ずかしがり屋で、公の場で歌うことは決してなかった。」と後に述べています。
翌年新設されたミラン・スクールに編入し、彼は毎日のごとくギターを学校に持ち込み始め、「ヒルビリー・ミュージックを演奏するくだらない子供」としてしばしばからかわれました。
当時家族は黒人居住区に住んでおり、ラジオ局WELOの番組「Mississippi Slim」の大ファンで好んで聴いていました。クラスメートの1人が同じく番組のファンで、一緒にラジオ局に連れて行ったりしたのですが、曰く彼はとにかく音楽に夢中だったそう。この番組でコード技術を示すことによりテクニックを実演し、エルヴィスのギターの技術は向上しました。
1948年、家族はテネシー州メンフィスに移り、ローダーデール・コートの公営住宅団地の2ベッドルームアパートに入居しました。
エルヴィスはL. C.ヒューム高校に在籍し、8年生で音楽の評価は「C」でした。1950年、彼はLee Denson(りー・デンソン)の下でギターの練習を始め、彼らと、ロカビリーの先駆者Dorsey(ドーシー)とJohnny Burnette(ジョニー・バーネット)兄弟の少年達は気兼ねない音楽の集まりを作りました。彼はロウズ・ステート・シアターの案内役として働き始め、以降は仕事を転々としました。
エルヴィスは3年生になると目立つ存在になり、もみあげを伸ばし、ローズオイルとワセリンで髪を整えました。時間を見つけて、メンフィスのブルースシーンの中心であるビール・ストリートに顔を出しました。ミンストレル・ショーではギターを弾きながら歌い、Teresa Brewer(テレサ・ブリュワー)の最近のヒット曲「Till I Waltz Again with You」でオープニングを飾りました。
楽譜を読むことができなかったエルヴィスは、耳で勉強して演奏しました。Hank Snow(ハンク・スノウ)の全ての曲を覚えるなど、カントリー歌手のレコードが大好きでした。特にお気に入りの1人、サザンゴスペル歌手 Jake Hess(ジェイク・ヘス)は後のバラードに大きな影響を与えました。
エルヴィスはダウンタウンにある毎月開催の「All-Night Singings」の定期的なメンバーとなり、そこで演奏した白人ゴスペルグループの多くが黒人スピリチュアルミュージックの影響を受けていました。エリス講堂での徹夜のゴスペルに頻繁に参加し、Statesmen Quartet(ステーツマン・カルテット)のようなグループがリードした音楽スタイルは将来のステージ活動の種を蒔いていました。
特に黒人ゴスペル歌手Sister Rosetta Tharpe(シスター・ロゼッタ・ソープ)の音楽を崇拝しました。彼が通ったのはブルース演奏の溜まり場、そこは隔離された場所で白人聴衆の為に一夜限りの場所でした。一方では、スピリチュアル、ブルース、バックビートの効いたリズム&ブルースなどの「race records(レースレコード)」を放送するWDIA-AMなどの地域ラジオ局を熱心に聞きました。
後にリリースされた楽曲の多くは、Arthur Crudup(アーサー・クルドゥアップ)、Rufus Thomas(ルーファス・トーマス)などの地元の黒人ミュージシャンにインスパイアされたものです。1953年、高校を卒業する頃にはすでに将来の方向性として音楽を睨んでいました。
1953-1955 Sam Phillips(サム・フィリップス)との出会い
1953年8月、エルヴィスは両面アセテートディスク「My Happiness」と「That's When Your Heartaches Begin」をレコーディングするため、サン・レコードのオフィスを訪問しました。サン・レコードのボスであるSam Phillips(サム・フィリップス)は、ピンと来るものを感じ、受付のMarion Keisker(マリオン・キースカー)にこの若い男の名前を書き留めておくように言いました。
翌年、サン・レコードで2回目のアセテート版をカットしましたが何の反応もありませんでした。クラウン電気会社のトラック運転手として働きながら、合間を見ていくつかの地元バンドのオーディションを受けましたが採用には至りませんでした。
一方、サム・フィリップスは、サン・レコードが注目した黒人ミュージシャンのサウンドをより多くの聴衆に届けることができる人材を常に探していました。フィリップスが繰り返し「もし黒人のサウンドと黒人のフィーリングを持った白人男性を見つけることができれば、私は何億ドルを稼ぐことができる。」と云っていたのをマリオン・キースカーは覚えていました。
Jimmy Sweeney(ジミー・スウィーニー)が作曲したバラード「Without You」が十代の歌手に合うかもしれないとエルヴィスをスタジオに呼びましたが、それを表現ことはできませんでした。それにもかかわらず、フィリップスは知っている限り多くの曲を歌うように頼んだのです。十分な手ごたえを感じて、エルヴィスの録音セッションの為に、地元のミュージシャン、ギタリストのScotty Moore(スコティ・ムーア)とベーシストのBill Black(ビル・ブラック)を呼びました。
夕方から始まったセッションは深夜まで及びましたが、まったく実りのないものでした。何の成果もなく家に帰ろうとしていたとき、エルヴィスはギターを取り、1946年のブルースナンバー、Arthur Crudup(アーサー・クルーダップ)の「That's All Right(ザッツ・オール・ライト)」を歌い始めました。
スコティ・ムーアは、「突然、エルヴィスがこの歌を歌い始め、飛び跳ねてバカを始めた。そしてビル・ブラックはベースを拾い、彼もバカを演じ始めた。私は彼らと一緒に演奏し始めた。」と後に語っており、フィリップスは、コントロールブースのドアから頭を突き出して、「何をやっているんだ?」と叫ぶと、スコティ・ムーアは「わからない」と答えたそうです。フィリップスは「さあ、もう一度やり直して」と言って録音を始めました。
これこそ彼が探していたサウンドでした。
メンフィスのDJ、Dewey Phillips(デューイ・フィリップス)は、自身のラジオ番組「Red, Hot & Blue」で「That's All Right(ザッツ・オール・ライト)」を放送しました。リスナーは、歌手が誰であるかを知りたがって電話をかけ始めました。反応が大きいと判断したデューイ・フィリップスは残りの2時間にレコードを繰り返し演奏するようにしました。
トリオはBill Monroe(ビル・モンロー)の「Blue Moon of Kentucky」を独特のスタイルで録音、シングル盤のA面に「That's All Right(ザッツ・オール・ライト)」、B面に「Blue Moon of Kentucky(ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー)」がプレスされました。これがエルヴィスにとってのデビュー・シングルとなります。
彼らはメンフィスのオーバートンパークにある野外円形競技場、オーバートン・パーク・シェル(現在のレビット・シェル)に登場、大勢の観客が集まる前に演奏するリズムと極度の緊張感が重なり合って、エルヴィスは足を振るわせました。
彼のワイドカットパンツは彼の動きを強調し、聴衆の若い女の子が叫び始めました。スコティ・ムーアとビル・ブラックはエルヴィスと演奏することが決まり、DJ /プロモーターのBob Neal (ボブ・ニール)がマネージャーになりました。
彼らはイーグルス・ネスト・クラブで頻繁に演奏し、ステージでの自信を深めました。同年10月のナッシュビルの公開ライヴ放送のラジオ番組「グランド・オール・オプリ」のステージに上がりました。聴衆の反応の後、番組マネージャーのJim Denny(ジム・デニー)は「悪くないが、プログラムには合わない。」とフィリップスに言ったため、生涯一度きりの出演となりました。
1954年11月、「グランド・オール・オプリ」のメイン番組、「ルイジアナ・ヘイライド」の舞台で演奏しました。聴衆の熱狂的な反応を呼び起こし、番組は土曜の夜1年分の出演をエルヴィスと契約しました。
多くの駆け出しの歌手が、スポンサーであるテキサスの「サザンメイドドーナツ」を称賛しましたが、エルヴィスもその1人で、彼が生涯ドーナツを愛した遠因かも知れません。
エルヴィスは番組内のKSLA-TVに初めてテレビ出演しました。1955年初めまでに、定期的な番組出演、絶え間ないツアー、好評のレコードリリースにより、テネシー州から西テキサス州に至る地方のスターに成長しました。
同年1月、ボブ・ニールはエルヴィスと正式な管理契約を結び、音楽ビジネスの最高のプロモーターと考えているTom Parker(トム・パーカー)に引き合わせました。
トム・パーカーはウェストバージニア州出身(実際はオランダ人)を自称、カントリーシンガー出身のルイジアナ州知事、Jimmie Davis(ジミー・デイビス)から名誉大佐の称号を受けていました。彼はカントリースタートップのEddy Arnold(エディ・アーノルド)の興行に成功、当時はHank Snow(ハンク・スノウ)の興行を手掛け、ハンク・スノウの2月のツアーでプレスリーの起用を決めていました。
サン・レコードはタイトル「Elvis Presley, Scotty and Bill」をリリース。「That's All Right」などの曲は「R&Bの慣用句」、「Blue Moon of Kentucky」はカントリー、「しかし両方に2つの異なる音楽の奇妙なブレンドがある」と評されました。スタイルのブレンドは、プレスリーの曲をラジオのエアプレイに探し出すことを難しくしました。このブレンドがロカビリーと呼ばれるものでした。当時エルヴィスは「The King of Western Bop(キング・オブ・ウェスタン・バップ)」、「The Hillbilly Cat(ザ・ヒルビリー・キャット)」、「The Memphis Flash(ザ・メンフィス・フラッシュ)」などと呼ばれました。
エルヴィスは1955年8月にボブ・ニールとの契約を更新し、同時にトム・パーカーを特別顧問に任命しました。
ボブ・ニールは「10代の少年からエルヴィスに寄せられた反応は恐ろしいものだった。彼らの多くは、ある種のねたみを通り越して、彼を憎悪したのだろう。」と云います。11月初旬のカントリーDJコンベンションで、その年の最も有望な男性アーティストに選ばれました。
トム・パーカーとフィリップスは11月21日にRCAビクターと契約を結び、エルヴィスのサン・レコードとの契約を前例のない4万ドルで獲得しました。20歳のプレスリーは未成年だったため、父親が契約に署名しました。
トム・パーカーはElvis Presley Music とGladys Musicの2つの会社を設立、プレスリーに関連するすべての商品を独占しました。作曲家は、作曲と引き換えに、慣習的なロイヤルティの3分の1を放棄する義務がありました。12月までに、RCAは新しい歌手を大々的に宣伝、サン・レコードの録音の多くを再プレスしました。
「ルイジアナ・ヘイライド」出演時にドラマーを担当していたD. J. Fontana(D・J・フォンタナ)が正式なサポートメンバーとなり、Bill Haley(ビル・ヘイリー)をサポートするためにいくつかのショーで演奏しました。
1956-1958 大ブレイク 初の全国テレビ出演とデビューアルバム
1956年1月、エルヴィスはナッシュビルでRCAの最初の録音を行いました。スコティ・ムーア、ビル・ブラック、D・J・フォンタナ、Floyd Cramer(フロイド・クレーマー)のバックアップで、エルヴィスのライヴを演奏してきましたが、RCAは人気カルテットThe Jordanaires(ザ・ジョーダネアーズ)に在籍するGordon Stoker(ゴードン・ストーカー)を含む3人のバックコーラスをグループに加えます。このセッションで「Heartbreak Hotel(ハートブレイク・ホテル)」をリリース。
トム・パーカーはついにテレビ全国放送CBSのStage Showに出演させました。エルヴィスはニューヨークに滞在、RCAのスタジオでレコーディングし、Carl Perkins(カール・パーキンス)の「Blue Suede Shoes(ブルースエード・シューズ)」のカバーを含む8曲が録音されました。
以前サン・レコードで録音された、「I Forgot to Remember to Forget(アイ・フォーガット・トゥ・リメンバー・トゥ・フォーゲット)」がビルボードカントリーチャートで初の1位を記録。ボブ・ニールの契約は終了し、パーカーがプレスリー唯一のマネージャーになりました。
RCAはエルヴィスのセルフタイトルのデビューアルバムをリリース。ビルボードチャートで1位となった初のロックンロール・アルバムとなり、10週連続1位を記録。また100万枚以上をセールスした初のロックンロール・アルバムにもなりました。
エルヴィスは、スコティ・ムーア、Bo Diddley(ボ・ディドリー)やChuck Berry(チャック・ベリー)のような革新的なギタリストではありませんでしたが、文化史家のGilbert B Rodman(ギルバート・B・ロッドマン)は「ギターを手に持つエルヴィスのアルバムのカバー画像は、この新しい音楽のスタイルと精神を最もよく捉えた楽器として重要な役割を果たした。」と述べています。
同時期にリリースされたシングル、「Heartbreak Hotel(ハートブレイク・ホテル)」がリリースから12週間後の4月、当時のビルボードランキング「ビルボード・トップ・100」で初の1位を獲得。またイギリスの音楽チャートでも2位を記録する大ヒットとなります。
この時期、ラスベガスにあるニューフロンティア・ホテル&カジノに2週間ほど滞在しショーを開催。しかしステージは保守的な中年のホテル宿泊客にはあまり受け入れられませんでした。
ラスベガス滞在中、真剣に演技を学びたいと思っていた彼は、パラマウント・ピクチャーズと7年間の契約を結びました。彼はラスベガスで活動するボーカルグループ、Freddie Bell and the Bellboys(フレディー・ベル&ザ・ベルボーイズ)のいくつかのショーに参加し、Jerry Leiber(ジェリー・リーバー)と Mike Stoller(マイク・ストーラー)が書いたBig Mama Thornton(ビッグ・ママ・ソーントン)の1953年のヒット曲「Hound Dog(ハウンド・ドッグ)」のカバーに衝撃を受け、自身もカバーし同年7月にリリース。この曲までビルボード・トップ・100では4作連続で1位を獲得しました。
この時期に出演したテレビ番組、Milton Berle Show(ミルトン・バーク・ショウ)が好評で、ニューヨークのNBCのSteve Allen Show(スティーブ・アレン・ショー)に出演することになりました。ロックンロールのファンではないスティーブ・アレンは、白い蝶ネクタイと黒いテールの「新しいエルヴィス」を紹介し、エルヴィスはシルクハットと蝶ネクタイを着たバセットハウンドに「Hound Dog(ハウンド・ドッグ)」を1分以内で歌いました。
テレビ歴史家Jake Austen(ジェイク・オーステン)は「アレンはエルヴィスには才能がなく、馬鹿げていると思ったが、エルヴィスが改悛の情を示すように物事を準備した」と説明しています。
8月、フロリダ州ジャクソンビルの裁判官は、エルヴィスに自制するよう命じました。彼は命令を冷笑するかのように小指を思わせぶりに揺らすことを除いて、多くの動作を止めました。「Don't Be Cruel(冷たくしないで)」と「Hound Dog(ハウンド・ドッグ)」のシングルペアは11週間チャートトップを保持、これは36年間破られたこがありませんでした。
エルヴィスが出演したスティーブ・アレン・ショーは、当時だい人気だったテレビ番組「Ed Sullivan Show(エド・サリバン・ショー)」の評価を上回り、この結果を受けてエド・サリバンは、エルヴィスに前例のない50,000ドルで3回の出演を契約しました。
初出演となった1956年9月9日の視聴者数は約6,000万人を超え、これは実にテレビ視聴者の82.6%が観たという記録的な数字でした。
またこの時期、「Love Me Tender(ラブ・ミー・テンダー)」のリリースを控えており、事前予約は過去最高となる100万枚以上を記録。当時のビルボードセールスチャートでは当時異例となる初登場2位を記録しました。トップ100では5曲目となる1位を獲得しています。
エド・サリバン・ショーに登場したことで、エルヴィスはほとんど前例のない国民的有名人となりました。名声の高まりに伴い、文化的変化が巻き起こり、彼は大きな刺激、シンボルになりました。
同年、映画デビュー作となる「Love Me Tender(やさしく愛して)」が11月に公開されました。映画は酷評されましたが、興行的には成功でした。
同年12月、エルヴィスはサン・レコードに立ち寄ると、たまたまCarl Perkins(カール・パーキンス)とJerry Lee Lewis(ジェリー・リー・ルイス)がレコーディングを行っており、居合わせたJohnny Cash(ジョニー・キャッシュ)とともに即興のジャムセッションを行いました。
フィリップスにはもはやエルヴィスの音源をリリースする権利はありませんでしたが、セッションはテープに記録されていました。音源は、25年間リリースされることもなく、「Million Dollar Quartet(ミリオンダラー・カルテット)」のレコーディングとして知られるようになりました。
その年の終わりは、ウォール・ストリート・ジャーナル誌の一面記事で、グッズが彼のレコード売上に加えて2200万ドルの収入をもたらしたと報じられ、ビルボード誌が「レコードがチャートに載って以来、エルヴィスは他のどのアーティストよりも多くのトップ100入りを果たした」と宣言。音楽業界最大手の1つであるRCAに入社して最初の1年間で、レーベルのシングル売上の50%以上を占めていました。
1957年1月、3回目で最後のエド・サリバン・ショーに出演。「Peace in the Valley(谷間の静けさ)」を歌い、サリバンはエルヴィスを「立派な少年である」と宣言しました。
2日後、当時のアメリカは徴兵制を施行していたこともあり、メンフィスの徴兵委員会はおそらくその年に招集されると発表しました。
そして同時期にリリースされたシングル「Too Much(トゥー・マッチ)」がトップ100で3週連続1位を獲得して以降、3月にリリースされた「All Shook Up(恋にしびれて)」が8週連続、6月にリリースされた「(Let Me Be Your)Teddy Bear(テディ・ベア)」が7週連続1位となり、この年の上半期のほとんどの首位をプレスリーが独占していました。
この時期は映画の撮影とレコーディングで多忙を極めており、その間、自分自身と彼の両親のためにメンフィスの南、グレイスランドに大邸宅を購入しました。
7月には映画のサウンドトラック「Loving You(さまよう青春)」は自身のスタジオ・アルバムから数えて3作連続で全米1位を獲得。アルバムの人気と比較すると公開された映画「さまよう青春」は当時の興行収入ランキングで7位と決してヒットしたとは言えませんでした。
タイトルトラックを書いたJerry Leiber(ジェリー・リーバー)とMike Stoller(マイク・ストーラー)は次の映画「Jailhouse Rock(監獄ロック)」の4曲を書くことになります。
作曲チームはプレスリーと緊密な協力関係を築き、エルヴィスは彼らを「開運のお守り」と考えるようになりました。「彼は理解がはやく、与えたどんなデモでも彼は10分で理解した」とジェリー・リーバーは語っています。
映画は11月に公開され、興行収入では年間14位を記録するヒットとなります。しかしエルヴィスはヒロイン役のJudy Tyler(ジュディ・タイラー)が映画完成からわずか3日後の1957年7月3日、自動車事故で24歳の若さで急死してしまい、ショックのあまり完成した本作を見ることができなかったそうです。
主題歌はトップ100で7週連続1位、そしてイギリスでも初の1位を記録し大ヒット。エルヴィスの代表曲のひとつとなり、映画は2004年、アメリカ国立フィルム登録簿に登録されました。
「監獄ロック」が公開される約1か月前に、初のクリスマス・アルバム「Elvis' Christmas Album(エルヴィス・クリスマス・アルバム)」がリリースされ、ビルボードチャートでは4週連続で1位を記録。以後毎年のようにシーズンになると売れるようになり、現在までに全世界で2000万枚を売り上げ、今でも世界で最も売れているクリスマス・アルバムとして君臨しています。
このセッション後、スコティ・ムーア、ビル・ブラックはエルヴィスの大規模な経済的成功を共有することなく辞任しました。彼らは数週間後に日割りの賃金で連れ戻されたが、エルヴィスの内輪の一部ではなかったことは明らかです。
12月、エルヴィスは招集通知を受け取りましたが、次の映画「King Creole(闇に響く声)」を完成させるために招集延期が認められました。翌1958年、リーバーとシュトラーの曲「Don't(ドント)」は、エルヴィス10曲目のNo.1ヒットになりました。映画のサウンドトラックセッションで、リーバーとシュトラーのコンビは3曲を提供し、再び仲間に加えられましたが、彼らとエルヴィスが緊密に協力したのはこれが最後でした。マネージャーと側近は彼を壁に追い詰めた、とシュトラーは振り返ります。
1958-1960 兵役と母親の死
1958年3月、エルヴィスは陸軍一等兵に招集されました。期間中の8月、彼の母親は肝炎が急速に悪化し、46歳の若さで心不全で亡くなりました。2人は非常に仲が良く、エルヴィスが大人になってからでもお互いに幼児語を使用していたそうです。
訓練後、ドイツのフリートベルクにある第3装甲師団に配属。演習中、軍曹にアンフェタミンと呼ばれる間接型アドレナリン受容体刺激薬を紹介され、「強さ」と減量のためにもその恩恵に浴しました。軍で空手を知り、後に彼のライヴパフォーマンスに空手を導入しました。
滞在中、エルヴィスは後に婚約する、当時14歳だったPriscilla Beaulieu(プリシラ・ボーリュー)と出会いました。プリシラは自伝の中で、プレスリーはG.I.(米陸軍の兵士と米空軍の航空兵を説明するための略称)としての24か月間の活動が自分のキャリアを台無しにしてしまうのではないかと心配していたと述べています。
パーカーは大衆の尊敬を得るためには正規の兵士として国に奉仕するべきだと彼を説得しました。プレスリーの2年間の活動休止に向けて入念に準備、かなりの量の未発表音源を武器に、定期的にリリースを成功させました。
1960-1967 映画とサウンドトラック
エルヴィスは1960年3月に帰国、軍曹として除隊しました。ニュージャージーからテネシーまで彼を運ぶ列車にファンが殺到、それはファンを喜ばせるために予定された停留所に現れるように求めるほどでした。
その約2週間後、RCAのナッシュビルスタジオでシングル「Stuck on You(本命はお前だ)」や新作アルバム用の楽曲を録音し、「Stuck on You(本命はお前だ)」はレコーディングのわずか2日後にリリースされ、全米では60年代最初の1位を獲得、その後4週にわたって1位をキープする大ヒットとなりました。
2週間後のセッションで4枚目のスタジオ・アルバム「Elvis Is Back!」収録曲をレコーディングし、4月にリリース。アメリカでは2位止まりでしたがイギリスで初の1位を獲得しました。
リリース後すぐに映画撮影を行い、除隊後初の作品「G.I. Blues(G.I.ブルース)」で主演を務め、10月にサウンドトラックをリリースし全米、全英で1位を獲得し、映画も11月に公開され大ヒットを記録。しかしエルヴィスが画面に戻ったため、メキシコシティの劇場で暴動が発生し、メキシコ政府にエルヴィスの映画の公開を禁止するよう促すような事態も発生しました。
同月、初のゴスペル・アルバムとなる「His Hand in Mine(心のふるさと)」がリリースされ、全米ポップチャートで13位、イギリスで3位となり、ゴスペル・アルバムとしては異例の上位を記録しました。
1961年に入ると、地元の慈善団体を代表して、メンフィスでの特典イベントのために2つのショーを行いました。イベントに先立つ昼食会で、RCAは彼に7500万枚以上の世界的な売り上げを証明する盾を贈りました。
3月に行われた12時間に及ぶセッションでは、次のスタジオ・アルバム「Something for Everybody(歌の贈り物)」の多くがレコーディングされ、同年6月にリリースされました。
パーカーは今まで、エルヴィスを定型的で適度な予算のミュージカルコメディ作品への出演に焦点を当てたスケジュールを組んでいました。当初、より高い役割を追求しようとして出演した映画「Flaming Star(燃える平原児)」と「Wild in the Country(嵐の季節)」が商業的に失敗、従来の路線に戻ってしまいました。1960年代に彼が出演した27本の映画は、数本の例外を除いて、ほぼ全面的に酷評されましたが、映画のほぼ全てが黒字でした。
映画の早急な制作とサウンドトラック・リリースのスケジュールが彼の音楽に影響を与えることになり、特にサウンドトラックの品質は「次第に劣悪化」しました。1966年の映画「Paradise, Hawaiian Style(ハワイアン・パラダイス)」に出演した女優のJulie Parrish(ジュリー・パリッシュ)は、映画に選ばれた自分の曲の多くが嫌いだったと語っています。
しかしその実態とは裏腹に当初その人気は衰えることはなく、エルヴィスのサウンドトラック・アルバム収録の3曲がポップチャートで1位を獲得、そして彼の最も人気のある曲のいくつかは「Can't Help Falling in Love (1961)」や「Return to Sender (1962)」などの映画によってもたらされました。
しかし、芸術的メリットと同様に、商業的利益は着実に減少、1964年頃からリリースされたシングルはアメリカでのトップ10にも入らなくなってしまい、しばらくヒットから遠ざかっていました。
そんな中1965年にリリースされたシングル「Crying in the Chapel(クライング・イン・ザ・チャペル)」が3位を記録し久々のヒットとなります。
この曲はプレスリーがもとのサニー・ティル&ジ・オリオールズのR&B版には匹敵しないと不満を持っていたため、お蔵入りになっていた曲でした。
1967年にはプロデューサーが変更された最初の作品となった9枚目のスタジオ・アルバム「How Great Thou Art(ゴールデン・ヒム)」がロングヒットとなり、翌年行われた第10回グラミー賞の「最優秀インスピレーショナル・パフォーマンス賞」を受賞。後のプレスリーのアルバムに大きな影響を与える作品となりました。
「Crying in the Chapel(クライング・イン・ザ・チャペル)」がリリースされた約2ヶ月後の1965年8月27日、ロサンゼルス市のプレスリーの邸宅でThe Beatles(ビートルズ)と一度きりの会見を果たします。
当初ビートルズのマネージャーであるBrian Epstein(ブライアン・エプスタイン)とパーカーとの間で「極秘の打ち合わせ」という名目だったが、どこからか漏れてしまい、案の定自宅周辺には野次馬が集まる事態に。両者は即興演奏などを楽しむも終始緊張感のある空気で、John Lennon(ジョン・レノン)の発言からエルヴィスが気分を害してしまい、決して友好的な時間とは言えない結果に。その後エルヴィスはビートルズの曲を定期的にコンサートで歌っていたのですが、反アメリカ主義の傾向と見て、特にジョンの曲を歌うことはなかったそうです。
1968-1973 '68カムバック・スペシャル
1967年に女優のPriscilla Beaulieu(プリシラ・ボーリュー)と結婚し、翌1968年、プレスリーの唯一の子であるLisa Marie(リサ・マリー)が誕生します。
プライベートが充実する中、自分のキャリアに深く不満を抱いていました。1967年1月から1968年5月の間にリリースされた8曲のうち、トップ40にチャートされたのは2曲だけ。パーカーはすでに彼の計画をテレビに移しており、彼はNBCとライヴ公演の資金提供とクリスマス・スペシャルの放送の契約を結びました。
同年6月下旬にカリフォルニア州バーバンクで収録されたこのスペシャルは「Elvis」という番組名で、1968年12月3日に放送されました。
後に「'68 Comeback Special('68カムバック・スペシャル)」として知られ、少人数の聴衆を前にしての、1961年以来、最初のライヴ・パフォーマンスでした。エルヴィスがタイトな黒革に身を包み、彼の初期のロックンロール時代を彷彿とさせるスタイルでギターを演奏そして歌いしました。
ディレクター兼プロデューサーのSteve Binder(スティーブ・バインダー)は、パーカーが当初計画していたクリスマス・ソング中心とはかけ離れたショーの制作に取り組みました。
NBCで、シーズン中最高の評価を受けたこの番組は視聴率42%、瞬間最高視聴率約72%という驚異的な記録を打ち出しました。カムバック・スペシャルのために書かれたシングル「If I Can Dream(明日への願い)」がアメリカで12位を記録、初のライヴ・アルバム「Elvis(エルヴィス)」はトップ10入りを果たしました。
このの経験に支えられて、2年ぶりとなるスタジオ・アルバム「From Elvis in Memphis(エルヴィス・イン・メンフィス)」が完成しました。
1969年6月にリリースされたこのアルバムは8年間ぶりに映画で使用されていない楽曲を収めた作品となり、イギリスではスタジオ・アルバムとしては7年ぶり4枚目の1位を獲得しました。4年ぶりにアメリカでトップ3入りを果たしたヒットシングル「In the Ghetto(イン・ザ・ゲットー)」などが収録されています。
エルヴィスは定期的なライヴを再開することに熱心でした。カムバック・スペシャルの成功に続き、世界中からオファーが届きました。
5月、ラスベガスで最大のショールームを誇るインターナショナル・ホテルは、エルヴィスを獲得したことを発表しました。4週間で57のショーを行う計画で、プレスリーは新しいトップレベルのバックバンドThe Imperials and Sweet Inspirations(インペリアル・アンド・スウィートインスピレーション)を結成しました。
コスチュームデザイナーのBill Belew(ビル・ベロウ)は、エルヴィスの空手への情熱に触発されて新しいステージルックを作成しました。しかし1956年の彼の唯一のラスベガスの公演が惨めな結果に終わったため、彼は非常に神経質でした。
パーカーは、エルヴィスのショービジネスへの復活を意図して、大掛かりな宣伝活動を指揮、ホテルのオーナーであるKirk Kerkorian(カーク・ケルコリアン)は、自分の飛行機をニューヨークに送り、デビューパフォーマンスにロックジャーナリストが飛んで来るように手配しました。
エルヴィスは紹介なしでステージに上がりました。多くの著名人を含む2,200人の聴衆は、彼が最初の曲を歌う前に、そしてそれが終わる際にスタンディング・オベーションで応えました。
記者会見でジャーナリストは彼を「The King」と呼びましたが、エルヴィスは「いいえ」と言って、ジェスチャーでFats Domino(ファッツ・ドミノ)を捉えて、「彼こそがロックンロールの本当のKingだ」と言いました。パーカーはホテルと交渉し、エルヴィスが今後5年間ショーを開催する契約を結びました。
1970年初め、エルヴィスは2ヶ月にわたる契約期間の最初の1か月をインターナショナル・ホテルで、毎晩2つのショーを行いました。これらのショーの録音は「エルヴィス・オン・ステージ」としてライヴ・アルバムとしてもリリースされました。
2月下旬テキサス州ヒューストンにある世界初のドーム球場、アストロドームで6つの動員記録を破るショーを行い、8月のラスベガス公演やリハーサル風景を収めたドキュメンタリー映画「Elvis: That's the Way It Is(エルヴィス・オン・ステージ)」に収録しました。
エルヴィスはジャンプスーツで登場し、これが彼のライヴのトレードマークになります。エルヴィスは1950年代以降、多くの脅迫にさらされてきましたが、FBIはセキュリティを強化し、デリンジャーを右足に、コルト45ピストルをベルトに付けてステージに上がる用事深さでした。
1970年12月、ホワイトハウスでRichard Nixon(リチャード・ニクソン)大統領と面談し、そこで彼の愛国心を表明し、彼と大統領が嫌悪する薬物文化と闘うためにヒッピーに手を差し伸べることができると信じていると説明しました。彼は愛国的な努力の公式な承認を示すために、彼はニクソンに麻薬取締局のバッジを求めました。出会いを気まずく感じたニクソンは、エルヴィスが若者に前向きなメッセージを送ることができると信じると表明するにとどめました。
1971年、米国青年会議所はプレスリーを毎年恒例の10人の最も優れた全国の若者の1人に指名、さらに第14回グラミー賞においてGrammy Lifetime Achievement Award(特別功労賞生涯業績賞)を授与された最初のロックンロール歌手になりました。
この年スタジオ・アルバムを3枚もリリースし、批評家に最も好評だったのは「Elvis Country(エルヴィス・カントリー)」でしたが、最も売れたのは14年ぶりとなったクリスマス・アルバム「Elvis Sings the Wonderful World of Christmas(初めてのクリスマス)」でした。毎年のようにヒットし続け、1977年に100万枚を突破し、1988年にダブルプラチナ、1999年にトリプルプラチナ認定を受けています。
一方、エルヴィスと彼の妻はますます遠くになり、ほとんど同棲していませんでした。1971年、Joyce Bova(ジョイス・ボヴァ)との関係はプレスリーには知られていませんでしたが、彼女の妊娠と中絶をもたらしました。彼はしばしば彼女がグレイスランドに引っ越す可能性を提起し、プリシラを去る可能性が高いと述べていました。
プリシラがMike Stone(マイク・ストーン)との関係を明らかにした後、1972年2月に2人の結婚生活は破綻します。1973年10月9日に正式離婚するものの、友人関係は維持され、以前よりも密に連絡を取り合うようになったと言われています。
1972年4月のコンサート・ツアーの模様を収めたドキュメンタリー映画「ELVIS On Tour(エルヴィス・オン・ツアー)」が製作され同年公開、ゴールデングローブ賞のベストドキュメンタリー映画を受賞しました。この作品が生涯最後の映画となりました。同月リリースされたゴスペル・アルバム「He Touched Me(至上の愛)」は第15回グラミー賞にて最優秀インスピレーショナル・パフォーマンス賞を受賞しました。
同年6月にはマディソン・スクエア・ガーデンでのツアーは3日間で78000人を動員し、公演の収入73万ドルは当時MSG記録。最初から最後まで収録した初のライヴ・アルバム「Elvis:Recorded at Madison Square Garden(エルヴィス・イン・ニューヨーク)」は1970年代の最も売れたライヴ・アルバムの1つとしてランク付けされました。
ツアー後、シングル「Burning Love(バーニング・ラヴ)」がリリースされ、ビルボード・ホット・チャート2位にランクインし、エルヴィスにとって最後のトップ10ヒットとなりました。エルヴィス自身はこの曲にあまり魅力を感じなかったため、プロデューサーのFelton Jarvis(フェルトン・ジャーヴィス)とスタッフ達はレコーディングさせるために説得して製作されたそうですが、そのせいか歌詞を覚えるのが大変だったようです。
1973年1月、エルヴィスはクイ・リー癌基金のためのコンサートを行いました。これは報道番組だけに使われていた人工衛星を使い、世界同時生中継された史上初で最後の巨大ショー「アロハ・フロム・ハワイ」という名で、日本、韓国、タイ、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドのゴールデンタイムに、そして東南アジアに駐留する米国軍に衛星放送で生放送されました。
これは日本からの来日公演の求めに応じて、ハワイで開かれたもので、全国的に「Elvis Presley Week」を冠し視聴率37.8%を記録。翌夜、ヨーロッパの28か国に同時放送され、4月に米国でついに拡大版が放映され、57%の高視聴率を獲得しました。ライヴ・アルバム「Aloha from Hawaii Via Satellite」が2月にリリースされアメリカでは9年ぶりの1位を獲得し、最終的に500万枚以上を売り上げました。
1973-1977 健康悪化と死
年を重ねるごとにライブを行っており、1973年には168のコンサートがあり、これまでで最も忙しいスケジュールでした。それまでに、彼の健康は大きく害され深刻な状態で、バルビツール酸塩を過剰摂取し、ホテルスイートの昏睡状態で3日間過ごすことがありました。彼は健康に失敗したにもかかわらず、1974年に彼は別の集中的なツアースケジュールを引き受けました。
エルヴィスの体調は9月に急激に悪化しました。ギタリストのJohn Wilkinson(ジョン・ウィルキンソン)はこう振り帰りました。「はらわたが抜けてしまい、言葉は不明瞭、ほとんど聞き取れませんでした。明らかに薬物中毒、彼の体に何か大きな異変が起きていました。意味不明な歌詞を歌い、彼は泣いていた。」
ウィルキンソンは彼が楽屋で椅子にもたれかかって動けなくなっている様子を見ました。「何度かこのツアーをキャンセルして1年ぐらいゆっくりすれば良いのにと何度か思った。そして私がそう口にすると、彼は私の背中を撫でて大丈夫だ、心配しないでくれ、と言ったんだ」と振り返っており、エルヴィスは満員御礼の観客のためにプレイし続けました。
10年以上にわたってエルヴィスからの安定した商品供給を楽しんでいたRCAは、彼がスタジオでの時間を過ごすことへの関心が衰えたことに不安を感じました。1973年12月のセッションで18曲を制作し、ほぼ2枚のアルバムに十分な曲数でしたが、1974年には彼はスタジオに入りませんでした。
パーカーは別のコンサートレコード、「Elvis Recorded Live on Stage in Memphis(ライヴ・イン・メンフィス)」をRCAに売却します。これには、エルヴィスの3回目のグラミー賞(最優秀インスピレーショナル・パフォーマンス賞)を受賞した「How Great Thou Art(ゴールデン・ヒム)」のバージョンが含まれていました。1976年、RCAはエルヴィスの自宅で本格的な録音セッションを可能にする移動スタジオをグレイスランドに送りましたが、これさえも彼にとっては苦痛でした。
1973年7月から1976年10月までのスタジオセッションでは、エルヴィスは事実上6枚のアルバム分を録音しました。彼はもはやポップチャートの主要な存在ではありませんでしたが、それらのアルバムの5曲がカントリーチャートのトップ5に入り、1975年の「Promised Land(約束の地)」、1976年の「From Elvis Presley Boulevard、Memphis、Tennessee(メンフィスより愛をこめて)」、1977年の「Moody Blue(ムーディ・ブルー)」の3枚のアルバムが1位を獲得しました。その年に、彼の最も絶賛されたレコーディングがやって来ました。1977年の「Moody Blue(ムーディ・ブルー)」は24枚目のスタジオ・アルバムで、彼の死の4週間前の1977年7月にRCAレコードからリリースされ大ヒットを記録しています。
1977年6月、CBSはテレビスペシャル「Elvis in Concert」の2つのコンサートを撮影しました。ジャーナリストのSteve Dunleavy(スティーヴ・ダンリーヴィー)がエルヴィスの長期にわたる薬物乱用を書いた最初の暴露本「Elvis: What Happened?」がイギリスでは5月、アメリカで8月に発売され、彼はその本に打ちひしがれ、出版を止めようとしましたが失敗に終わりました。この時点で、おそらくは薬物乱用によって、緑内障、高血圧、肝障害、および結腸肥大などの病気に苦しんでいました。
1977年8月16日の午後、ガールフレンドのGinger Alden(ジンジャー・アルデン)は浴室の床で反応しない状態で横たわる彼を発見しました。彼女によると、「エルヴィスは、便器を使用している間、座ったままの姿勢で全身が完全に凍りついたように見え、そのままの姿勢で便器の真ん前に倒れていた。」と証言しており、彼を復活させる試みは失敗しました。享年42歳。
ジミー・カーター大統領は声明を発表し、「エルヴィス・プレスリーはアメリカの大衆文化の顔を永久に変えた」と称賛しました。エルヴィスの葬儀は8月18日(木)にグレイスランドで行われ、約8万人の人々がフォレスト・ヒル墓地への行列に並び、エルヴィスは母親の隣に埋葬されました。
検視後、死因は処方薬の極端な誤用による不整脈と公式に発表されました。検死官Jerry Francisco(ジェリー・フランシスコ)博士は、薬物が関係しているかどうかを尋ねられ、彼は「エルヴィスの死に薬物は関係していない」と断言しました。
しかし1979年、法医学病理学者のCyril Wecht(シリル・ウェヒト)が報告書の見直しを行い、中枢神経系の抗鬱薬の組み合わせがエルヴィスの事故死をもたらしたと結論付けました。法医学史家で病理学者のMichael Baden(マイケル・バーデン)は「エルヴィスは長い間心臓が肥大していた。加えて、彼の薬物依存が彼を死に至らしめた。しかし、原因を究明するのは困難である」と述べました。
最近の調査では、フランシスコ博士は病理学チーム全体を代表して発言していなかったことが明らかになりました。2013年、Forest Tennant(フォレスト・テナント)博士は「薬物乱用が転倒、頭部外傷、脳を損傷する過剰摂取につながっていた」と結論づけました。2014年にプレスリーのものとされる髪の毛のサンプルのDNA分析を行ったところ、緑内障、偏頭痛、肥満につながる遺伝的変異の証拠が見つかり、彼の死の原因の一部は、検出されていない肝臓酵素の欠陥が突然の心臓不整脈を引き起こした可能性があると結論づけました。
プレスリーの死後
1977年から1981年の間、エルヴィスが死後に発表したシングルのうち6曲がカントリー・ヒットとなりました。グレイスランドは1982年に一般公開され、年間50万人以上の訪問者を集め、ホワイトハウスに次いで米国で2番目に訪問者数の多い施設となりました。 2006年には国定歴史建造物に指定されました。
エルヴィスは1986年にロックンロールの殿堂入り、1998年にカントリー音楽の殿堂入り、2001年にゴスペル音楽の殿堂入り、2007年にロカビリーの殿堂入り、2012年にメンフィス・ミュージックの殿堂入りと、の5つに殿堂入りを果たしています。1984年には、Blues Foundation(ブルース財団)からW. C. Handy Award (W.C.ハンディ賞)、Academy of Country Musicの第1回ゴールデン・ハット賞を受賞。1987年にはAmerican Music Awards(アメリカン・ミュージック・アワード)の功労賞を受賞しました。
2002年にはオランダ人ミュージシャンのJunkie XL(ジャンキーXL)が、エルヴィスの「A Little Less Conversation(おしゃべりはやめて)」のリミックスをリリースし、2002年のFIFAワールドカップ期間中にナイキの広告キャンペーンで使用されました。この曲は20カ国以上でチャートのトップに立ち、No.1ヒット曲を集めたコンピレーションアルバム「ELV1S: 30 #1 Hits」は国際的な成功を収め、プレスリーを約30年ぶりにビルボードのトップに返り咲かせました。
2003年には1969年のエルヴィスの録音である 「Rubberneckin'」をイギリスのDJ、Paul Oakenfold(ポール・オーケンフォールド)がリミックスし、イギリスで5位を記録、翌2004年には50周年記念盤である 「That's All Right」が再リリースされました。2005年には、再発売のシングル、「Jailhouse Rock」、「One Night」/「I Got Stung」、「It's Now or Never」が英国で1位を獲得しました。2005年、フォーブス誌はエルヴィス・プレスリーを5年連続で亡くなった有名人の中でトップとなり、年収4500万ドル、 2006年には2位となり、2007年と2008年にはトップに返り咲き、2009年には4位にランクインしました。 2010年、2位にランクインし、過去最高の年収6000万ドルを記録しました。
今日に至るまで、エルヴィス・プレスリーはソロアーティストの中で最も売れているアーティストであり、推定6億から10億ドルを売り上げています。彼の楽曲の多くがビルボードホット100にランクイン、統計学者のJoel Whitburn(ジョエル・ウィットバーン)によるとトップ100には152曲が、エルヴィスの歴史家Adam Victor(アダム・ビクター)によると139曲がチャートインしたとしています。
曲の数え方に依る差異はありますが、ビートルズが最も多くのNo.1ヒットを記録し20曲、マライア・キャリーが18曲で2位、エルヴィスを17曲で3位としています。
アルバム・アーティストとして、エルヴィスはビルボード200でチャートインしたアルバムの最多記録である129枚を記録、2位のフランク・シナトラの82枚を大きく引き離しています。また、ビルボード200で1位を獲得した期間の最長記録である67週を保持しています。
2020年現在、米国レコード産業協会(RIAA)は、エルヴィス・プレスリーの米国での認定アルバム売上高を1億4650万枚としており、これはビートルズ、 Garth Brooks(ガース・ブルックス)に次ぐ歴代3位です。ゴールド・アルバムの最多記録(101枚、2位のBarbra Streisand51枚の2倍近く)、プラチナアルバムの最多記録(57枚)を保持しています。彼の25枚のマルチ・プラチナ・アルバムは、ビートルズの26枚に次ぐ2位です。彼の合計197枚のアルバム認証賞(ダイヤモンド賞1枚を含む)は、ビートルズの2位の122枚を大きく上回っています。ゴールド・シングルではDrake(ドレイク) 及び Taylor Swift(テイラー・スウィフト)に次いで3番目に多い54枚、プラチナ・シングルでは8番目に多い27枚を記録しています。
2018年、Donald Trump(ドナルド・トランプ)大統領はエルヴィス・プレスリーに大統領自由勲章を授与しました。
最後に
いかがでしたでしょうか?
Elvis Presley(エルヴィス・プレスリー)の長きに渡る歴史を凝縮して解説してまいりました。
「世界史上最も売れたソロアーティスト」の第1位でもあり、もちろんここで全てをご紹介はできませんが、それでもここまでの長文となってしまいました。
最後まで読んで頂きありがとうございました。