デニス・ポップの功績を振り返る、スウェーデンから世界で成功し続けるポップス

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洋楽コラム

デニス・ポップの功績を振り返る、スウェーデンから世界で成功し続けるポップス
IMAGE VIA:About | Denniz Pop Awards

Denniz Pop(デニス・ポップ)をご存じでしょうか。

90年代、スウェーデン音楽の国際的成功の礎を築いた人物の一人で、今最もヒット曲を生み出している名プロデューサー、Max Martin(マックス・マーティン)の師匠に当たる人物でもあります。

1998年、わずか35歳で胃癌でその生涯を追えますが、今回はその功績を改めて振り返りたいと思います。

スウェーデンから世界で成功したアーティスト

スウェーデンから世界で成功を収めた初のアーティストと言えるのは、誰もが知るABBA(アバ)。

1974年のユーロビジョン・ソング・コンテストで「Waterloo」を披露し、優勝したことで、彼らは世界的な名声を得ました。

その後はシンセ・ポップ・バンドのSecret Service(シークレット・サービス)や、「The Final Countdown」のヒットで知られるハードロックバンド、Europe(ヨーロッパ)なども80年代に知られるようになりますが、特に成功したのは80年代後半から90年代前半にかけて全米1位を連発したRoxette(ロクセット)。

Roxette - The Look - YouTube

またイギリス方面で成功したのは日本でも人気の高かったThe Cardigans(カーディガンズ)。この時期日本ではスウェディッシュ・ポップと呼ばれ他にも人気のバンドがいました。

The Cardigans - Lovefool - YouTube

そして1992年、世界的成功を収めたのがAce of Base(エイス・オブ・ベイス)。シングルとしてはデビューから2枚目にリリースされた「All That She Wants」が全米2位、全英1位の大ヒットとなります。このプロデュースに関わったのがデニス・ポップです。

Ace of Base - All That She Wants - YouTube

DJからプロデューサーへ

1980年代にDJとして活動を始めたデニス・ポップはリミックス・レコードや後にオリジナル・リリースの制作を開始し、1990年にはDJチャンネルを通じて知り合ったDr. Alban(ドクター・アルバン)のデビュー・アルバム『Hello Afrika』で初めてプロデュースを担当しました。ナイジュリア出身のドクター・アルバンと「ハロー、アフリカ」と歌う曲をスウェーデンで制作するという挑戦的な印象もありますが、約2か月かかったものの相性がよくすべてがうまくいったとデニス・ポップは語っています。

同名のシングルはオーストラリアで1位、ドイツで2位、スイスで3位といきなりの成功を収め、アルバムもヒットしました。

Dr. Alban - Hello Afrika - YouTube

80年代、デニス・ポップを含む10人のDJはリミックスサービス「SweMix」を設立。当時は許可なくリミックス音源を作り、いわゆる海賊盤と呼ばれるものを配布していましたが、この活動は広く認知されるようになります。後にここから設立されたレーベル、SweMix Recordsでの最初のヒットが「Hello Afrika」となります。

ナイトクラブのオーナーだったTom Talomaa(トム・タロマー)の支援をきっかけに発展していったレーベルは分割され、SweMix Records & Publishingはデニス・ポップとトム・タロマーが引き継ぐことになります。1992年にCheiron(シェイロン)と改名してスタジオで作業を開始しました。

エイス・オブ・ベイスの成功

1987年に結成されたエイス・オブ・ベイスは当初、スウェーデン以外の近くの国でも積極的に活動し認知を広げようとクラブで演奏を続けていましたが、なかなかうまくいかず、デモカセットを多数のレコード会社に送るもどこも契約を拒否するような状態でした。

やがてデンマークのレコード会社、メガ・レコードが送られてきたデモテープを聴く事になりますが、最初は特に印象にも残らず感銘も受けなかったそう。

しかしここからが面白い話で、テープが車のステレオに詰まってしまい、運転するたびに無音は違うと何度も何度も聴くハメになったデニス・ポップは、繰り返し聴くことで「どうにかしないといけない」と感じたそうです。

この何度も聴く羽目になった曲が「All That She Wants」のデモ版「Mr. Ace」でした。

もしテープがステレオに詰まることがなければ、エイス・オブ・ベイスはどうなっていたのか。。。

当時のデモ音源がこちら。

Mr Ace (Demo 1991) (Bonus Track) - YouTube

聴いてみるとわかりますが、キーやテンポを変更し、レゲエ調のテイストを加え、大幅なリアレンジが施されています。

結果「All That She Wants」が全米2位、全英1位の大ヒット。デビュー・アルバム『Happy Nation』は全英1位。米国版には新曲を追加し全米1位。シングル化された「The Sign」はビルボードホット100で6週連続1位を獲得し、スウェーデン出身のグループとしてはABBA「Dancing Queen」以来17年ぶりの首位を獲得。更にアルバムと同時に1位を獲得した初のスウェーデン出身のグループとなりました。

エイス・オブ・ベイスのYouTubeにはデニス・ポップとマックス・マーティンのインタビュー映像が残っています。

Interview with Denniz Pop & Max Martin (How they started working with Ace of Base) - YouTube

スウェーデンに留まらない成功へ

エイス・オブ・ベイスの成功のあとも、多くのアーティストのプロデュースを行っていましたが、そのほとんどはスウェーデンでの活動でした。

ここまでの話で終わるとエイス・オブ・ベイスを成功に導いたプロデューサーで終わってしまいますが、ここから話は大きく展開していきます。

BMGが当時所有していたゾンバ・レーベル・グループ、後のジャイヴ・レーベル・グループを通じて海外のアーティストのプロデュースの話を受けることになります。

その最初のアーティストとなったのが、Backstreet Boys(バックストリート・ボーイズ)。

バックストリート・ボーイズのプロデュースと言えばマックス・マーティンのイメージが強いかもしれませんが、1993年にシェイロン・スタジオに雇われ、デニス・ポップの下で基礎を学んできた、いわばデニス・ポップの弟子のような関係です。

後に脱退しますが、当時所属していたバンド、It's Aliveではマーティン・ホワイトという名義で活動していました。

本人が気づかないうちに、デニス・ポップはマックス・マーティンと名付け、E-Types(イー・タイプ)の1994年の楽曲「This Is the Way」で初めてマックス・マーティン名義でクレジットされます。

プロデュースについて学んできたマックス・マーティンはデニス・ポップと共にエイス・オブ・ベイスの2枚目のアルバム『The Bridge』のいくつかの楽曲プロデュースに参加するようになります。

話は戻って、2人が共同プロデュースを行うようになってから話が来たのがバックストリート・ボーイズでした。

1995年、シングル「We've Got It Goin' On」でデビューしたバックストリート・ボーイズは、イギリス、ヨーロッパを中心にさっそく成功を収め、ビルボードホット100にも69位にエントリーしました。

翌1996年のデビュー・アルバム『Backstreet Boys』は当初イギリス、ヨーロッパを中心にヒット。アメリカでは当初リリースされなかったものの(翌1997年にリリース)、デニス・ポップが参加していないシングル「Quit Playing Games (With My Heart)」が全米2位を獲得するヒットとなりました。

Backstreet Boys - Quit Playing Games (With My Heart) - YouTube

この曲のヒットも後押しし、『Backstreet Boys』は全世界で1000万枚を売り上げる大成功を収め、デニス・ポップはもちろんマックス・マーティンも世界にその名が知られるようになります。

また、バックストリート・ボーイズが成功したことをきっかけに当時のアメリカでのボーイズ・グループの流れは一気に変わっていきます。当時大成功を収めていたBoyz II Men(ボーイズIIメン)の失速です。

勢いをそのままに1997年、NSYNC(イン・シング)も2人のプロデュースによってシングル「I Want You Back」でデビュー。全米13位、全英5位とバックストリート・ボーイズほどではありませんがヒットします。

*NSYNC - I Want You Back - YouTube

こうしてデニス・ポップはシェイロンの知名度をあげ、スウェーデンの音楽プロデューサーたちがグローバルなヒットを生み出す基盤を作りました。

早すぎる死

1997年に34歳で胃がんと診断されてから、デニス・ポップは1年も経たないうちに亡くなりました。

シェイロンに関わる多くの音楽プロデューサーたちはその後も多くのヒットを出しますが、デニス・ポップがいないことで何かが欠け、結局数年のうちにチームは解散。

マックス・マーティンは意思を継ぎ、その後の活躍は誰もが知る通り。

ジャイヴ・レーベルではBritney Spears(ブリトニー・スピアーズ)のデビュー曲「...Baby One More Time」はシェイロンのRami Yacoub(ラミ・ヤコブ)と共同プロデュースして制作されましたが、病気の中で参加していたデニス・ポップは結局どのレコーディング・セッションにも参加できず、ブリトニーは彼に会うことはありませんでした。

制作そのものは3人でのプロデュースで始まったものの、最終的に参加しきれなかったこともありマックス・マーティンがプロデューサー代理を務めました。

Britney Spears - ...Baby One More Time - YouTube

デニス・ポップの急逝は、スウェーデン音楽業界および世界のポップミュージックシーンに大きな影響を与えました。

バックストリート・ボーイズは、1999年リリースのシングル「Show Me the Meaning of Being Lonely」でデニス・ポップと愛する人を失ったすべての人に捧げられたメッセージで始まるミュージック・ビデオを作りました。

Backstreet Boys - Show Me The Meaning Of Being Lonely - YouTube

デニス・ポップがプロデュースした主なヒット曲

Dr. Alban

1990年デビュー・アルバム『Hello Afrika』
スウェーデンで6位、オーストラリアで2位、スイスで8位
1992年2ndアルバム『One Love』
スウェーデンで15位、オーストラリアで1位、スイスで3位
シングル「It's My Life」
全米88位、全英2位、オーストラリア、ベルギー、ドイツなどで1位
1994年3rdアルバム『Look Who's Talking!』
スウェーデンで11位、オーストラリアで7位、スイスで8位

Ace of Base

1992年デビュー・アルバム『Happy Nation』
スウェーデンで3位、全英1位、オーストラリアで3位、スイスで2位、ドイツ、デンマークで1位
シングル「All That She Wants」
全米2位、全英1位、その他11カ国で1位
1993年
デビュー・アルバム米国版『The Sign』
全米1位
シングル「The Sign」
全米1位、全英2位、その他7カ国で1位
1995年2ndアルバム『The Bridge』
全米29位、全英66位、スウェーデンで1位

Robyn

1996年シングル「Do You Know (What It Takes)」
全米7位、全英26位、カナダで2位、スウェーデンで10位
1997年シングル「Show Me Love」
全米7位、全英8位、カナダで2位、スウェーデンで14位

Backstreet Boys

1995年デビュー・シングル「We've Got It Goin' On」
全米69位、全英3位、オーストラリア、スイスで3位
1996年デビュー・アルバム『Backstreet Boys』
全英12位、その他7国で1位
1997年『Backstreet Boys』米国版
全米1位
2ndアルバム『Backstreet's Back』
全英2位、その他14か国で1位
シングル「Everybody (Backstreet's Back)」
全米4位、全英3位

NSYNC

1996年デビュー・シングル「I Want You Back」
全米13位、全英5位
1997年デビュー・アルバム『'N Sync』
全米2位、全英30位、ドイツで1位

わずか数年でこれだけ多くの世界的ヒット曲のプロデュースを行い、90年代のポップシーン、そしてその後のポップスにも大きな影響を与えています。

デニス・ポップの功績

デニス・ポップの功績はなんといってもスウェーデンの音楽プロデューサーコミュニティや彼と共に働いていたアーティスト、プロデューサーたちを世界的な地位に押し上げたこと。

特に後継者とも言えるマックス・マーティンは最終的に解散するもののシェイロンでの音楽制作において中心的な存在となりました。

2000年代前半に一端のピークを迎えたようにも感じますが、マックス・マーティンは今なお全米1位のヒット・ソングを生み続け、他のシェイロンのメンバーも個々に活動を続け、ポップミュージックの世界に影響を与え続けました。

2013年にはデニス・ポップ・アワードが設立。過去にはSwedish House Mafia(スウェディッシュ・ハウス・マフィア)やAvicii(アヴィーチー)などが受賞しており、2024年にはついにIlya Salmanzadeh(イリヤ・サルマンザデ)が受賞。

イリヤ・サルマンザデは特にAriana Grande(アリアナ・グランデ)の楽曲制作やプロデュースに深くかかわっており、『Eternal Sunshine』ではマックス・マーティンと共にほとんどの曲のプロデュースを担当しています。

スウェーデン出身のプロデューサーがこれだけ多く世界で活躍し続けられているのも、その基盤をデニス・ポップが作り上げたことにあるかもしれません。

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洋楽まっぷ編集部

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