Bee Gees(ビージーズ)の現在と50年に渡る歴史を9つの時代に凝縮して解説

Bee Gees(ビージーズ)は、1963年のデビューから「愛はきらめきの中に」「ステイン・アライヴ」「恋のナイト・フィーバー」など多くのヒット曲を世に送り出した3人兄弟によるグループです。

今回はBee Gees(ビージーズ)の現在の活動と、50年に渡る歴史を9つの時代に凝縮して解説していこうと思います。

Bee Gees(ビージーズ)のプロフィール

Bee Gees

Bee Gees(ビージーズ)は1958年、Barry Gibb(バリー・ギブ)、Robin Gibb(ロビン・ギブ)、Maurice Gibb(モーリス・ギブ)の三兄弟によって結成。

トリオは60年代末に頭角を現し、70年代中頃から末にかけてのディスコ・ミュージック全盛時代を牽引。1977年、爆発的ヒットの映画「Saturday Night Fever」は彼らの大ヒット曲を集大成し、彼らのハーモニーは頂点を極めます。

以降80年代に入り、ヒット曲の全てを自らの手で書くにとどまらず、他のアーティストにも多くのヒット曲を提供しています。 

バリーはリズムギターを担当。ロビンはピアノ、オルガン、時にはギターを、後には、ストリングスとキィーボードを演奏。モーリスはベース、ギター、ハーモニカ、ピアノ、オルガン、シンセサイザー、ドラム等多くの楽器を演奏、70年代後半は主にベースギターを、1986年以降はキーボード及びギターを担当、バンドの中で技術的に最も精通していると評価されています。

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Bee Gees(ビージーズ)のキャリア

1940s-1967 幼少期から活動開始まで

バリー、ロビン、モーリスの三兄弟は英国マン島で生まれました。

1958年、一家はオーストラリア、クィーンズランド、レッドクリフに移住。1960年、彼らはレッドクリフ・スピードウェイでレースの合間に演奏していましたが、そのプロモーター、Bill Goode(ビル・グード)にブリスベンに在るラジオ局のDJ、Bill Gates(ビル・ゲイツ)を紹介されます。ゲイツは、自分の名前の頭文字に因んでBGs(ビージーズ 後にBee Gees)と名付けました。

Bee Gees 1950

一家はクリブ・アイランドに移転。リゾート地で演奏活動をしている時に、Col Joye(コル・ジョイ)の興味を誘い、1963年、Leedon Recordsとの間に、「Bee Gees(ビージーズ)」の名でレコーディング契約に至るまで彼の援助を受けることになります。

1963年から1966年にかけ、一家はシドニーに居住。当時彼らは商業的成功の可能性が低いと評価され、Leedon Recordsの登録名簿から外される寸前でした。

この時期、Nat Kipner(ナット・キプナー)に出会い、Spin Recordsのマネージャーになったキプナーは彼らをSpin Recordsへ移籍させます。キプナーを通じてプロデューサーのOssie Byrne(オジィ・バーン)と知り合い、初期の楽曲の多くは彼によってプロデュースされます。楽曲のほとんどはシドニー郊外に在る小さなSt Clair Studioで録音されたもので、2ndアルバム「Spicks and Specks(スピックス・アンド・スペックス)」もそこで誕生しました。

それ以上には恵まれず、1967年、三兄弟は、オジィ・バーンと共に英国へ帰ります。皮肉なことに、彼らの乗る船が英国に向かっている間に、シングル「Spicks and Specks(スピックス・アンド・スペックス)」がオーストラリアで最も権威のある音楽新聞、Go-Set主催のBest Single of the Year受賞の知らせを受け取ったのです。

1967-1969 名声と凋落 亀裂

Bee Gees

1967年、NEMS(North End Music Stores Business ビートルズ関連商品管理会社)、Robert Stigwood(ロバート・スティッグウッド)のオーディションに合格しました。

記念すべき最初のシングル「New York Mining Disaster 1941(ニューヨーク炭鉱の悲劇)」は全英・全米共にトップ20入りを果たします。

Bee Gees - New York Mining Disaster 1941

2枚目のシングル「To Love Somebody」は全米トップ20に入り、その後は多くのアーティストにカバーされるスタンダード曲になりました。

続く「Holiday」は全米No.16を達成。3rdアルバム「Bee Gees' 1st(ビー・ジーズ・ファースト)」は全米No.7、全英No.8を記録しました。

Bee Gees' 1st
Revolver Records (2018-01-01)

1968年、4thアルバム「Horizontal(ホリゾンタル)」は全米No.12、全英 No.16のヒットとなり、収録のシングル「Massachusetts(マサチューセッツ)」はオーストラリアとイギリスで初めて1位を獲得。

Bee Gees - Massachusetts (One For All Tour Live In Australia 1989)

続くシングル「World(ワールド)」もヒット。さらには3rdアルバム「Idea(アイデア)」に収録の「I've Gotta Get a Message to You(獄中の手紙)」は全英チャートで1位を獲得しました。

1968年8月、7週間の米国ツアーを開始する予定でしたがロビンが倒れ意識不明となり、ツアーは延期、そしてアルバムのレコーディングに参加出来ず、彼を除いたバンドでインストのトラックをレコーディングしたり、デモ音源を活用して完成させたそうです。

アルバム「Odessa(オデッサ)」は、タイトルトラックのプログレッシブな感覚、カントリーっぽい「Marley Purt Drive」やバラッドの「First of May」など、1960年代最高の出来と評価されるものでした。

Odessa
Bee Gees
Polydor / Umgd (1990-10-25)

1969年頃から、ロビンはスティッグウッドがバリーをフロントマンとして特別扱いしていると感じ始めていました。

そして兄弟の間にすきま風が入り、これが音楽的な亀裂に発展、ロビンはグループを辞めてソロ活動に転じました。

コンピレーション・アルバムの第1弾「Best of Bee Gees(ベスト・オブ・ビー・ジーズ)」は「Words」及び「Spicks and Specks」をフィーチャーしたもので、全英、全米ともにトップ10を達成しました。

その後ロビンはソロ活動に専念。

残ったバリーとモーリスは次のアルバム「Cucumber Castle」の録音に入るも、途中でドラムを交代する一幕もあり、これがリリースされた1970年初めには、Bee Gees(ビージーズ)は既に終わったものと見なされていました。

リード・シングル「Don't Forget to Remember(想い出を胸に)」は全英で大ヒットのNo.2に達するも、全米では不本意なNo.73止まり、残りの曲はかろうじてチャートをひっかいただけの散々な結果となりました。

1969年12月、いよいよバリーとモーリスも別な道を歩くことになりました。ロビンはアルバム「Robin's Reign(ロビンズ・レイン)」がヨーロッパにおいて成功していました。

Robin's Reign
UMC (Universal Music Catalogue) (2018-03-09)

1970-1974 再結成と復活 マンネリ化 凋落

Bee Gees

1970年8月、彼らは再結成を宣言。10月にはアルバム「2 Years On(トゥー・イヤーズ・オン)」がリリースされ全世界で、37万枚を売り上げ、シングル「Lonely Days(ロンリー・デイズ)」が全米で今までに最高位となる3位を獲得します。

Bee Gees – Lonely Days (1970) [High Quality Stereo Sound, Subtitled]

1971年末、9thアルバム「Trafalgar(トラファルガー)」収録の「How Can You Mend a Broken Heart(傷心の日々)」が初めて全米No.1を達成、第14回グラミー賞ではBest POP Vocal Performance By A Duo, Group or Chorus部門にノミネートされました。

Bee Gees - How Can You Mend A Broken Heart (Live in Las Vegas, 1997 - One Night Only)

その後、彼らの楽曲は1971年公開のイギリス「小さな恋のメロディ」のサウンドトラックに採用されました。

日本では「Melody Fair(メロディ・フェア)」「In The Morning(イン・ザ・モーニング)」の2枚がシングル化され、「Melody Fair(メロディ・フェア)」はオリコン3位を記録するヒットとなり、サウンドトラック・アルバムも日本でのみリリースされました。

1972年には、アルバム「To Whom It May Concern(トゥ・フーム・イット・メイ・コンサーン)」収録の「Run to Me(ラン・トゥ・ミー)」が全英チャートで3年ぶりにトップ10に返り咲きます。

同年11月、彼らはロサンジェルスでの"Woodstock of the West" Festival のヘッドラインを飾りますが、次第に彼らの音楽がマンネリ化してしまっていたのは否めません。

アルバム「Life in a Tin Can(ライフ・イン・ア・ティン・キャン)」、2枚目のコンピレーション・アルバム「Best of Bee Gees, Volume 2(ベスト・オブ・ビー・ジーズ:ボリューム2)」と立て続けに不振に終わりました。1974年初めのアメリカ/カナダ・ツアーの後には、彼らは小さなクラブで演奏する、ドサ周り状態に落ち込んでしまいました。

スティッグウッドはアトランティック・レコードの創設者AhmetErtegün(アーメット・アーティガン)にアドバイスを求め、ソウル・ミュージックのプロデューサーのArif Mardin(アリフ・マーディン)とレコーディングするよう手配します。

完成した12thアルバム「Mr. Natural(ミスター・ナチュラル)」は数曲のバラッドを含みながらも、その後のキャリアがリズム&ブルースの方向に向かうきっかけとなりました。

ミスター・ナチュラル(紙ジャケット)
ビー・ジーズ
ワーナーミュージック・ジャパン (2013-09-25)

1975-1979 ディスコへの転換 絶頂と崩壊

Bee Gees

1975年始め、マイアミに移住。マーディンやスティッグウッドの助言を取り入れながらリリースしたシングル「Jive Talkin(ジャイブ・トーキン)」で、4年ぶり2度目の全米No.1を獲得。

Bee Gees - Jive Talkin' (Official Video)

他にも「Nights on Broadway(ブロードウェイの夜)」が全米7位を獲得するなどヒットが続き、アルバム「Main Course(メイン・コース)」で初めてバリーのファルセット(裏声)が使われ、後にこれが彼らのトレードマークとなります。収録の2曲が同時に全米トップ10入りを達成しました。

Main Course
Bee Gees
Polydor / Umgd (1994-05-03)

1976年9月にリリースされた14thアルバム「Children of the World(チルドレン・オブ・ザ・ワールド)」はディスコ・テイスト満載のアルバムでした。

リード・シングル「You Should Be Dancing(ユー・シュッド・ビー・ダンシング)」はディスコ・サウンドを嫌う一部の熱心なビージーズ・ファンには全くの不人気でしたが、全米ビルボードのダンス・チャートでは7週連続1位を獲得し、この曲が彼等をかつては全米で達成しえなかったスターダムの地位に押し上げることになります。

Bee Gees - You Should Be Dancing 1976 (HQ Audio)

1977年1月、「Love So Right(偽りの愛)」は全米No.3、アルバムはNo.8を達成しました。

グループ初のライヴ・アルバム「Here at Last... Bee Gees... Live(ヒア・アット・ラスト…ビー・ジーズ…ライヴ)」成功の後、映画「サタデー・ナイト・フィーバー」のサウンドトラック作成に参加することになり、彼らのキャリアにおける大きなターニング・ポイントになります。

映画とそのサウンドトラックは世界に大きな衝撃を与えました。

撮影が終了するまで、彼らが映画製作へ参加することはなく、驚くべきことに、わずか一度の週末で曲を書き上げたのです。

スティッグウッドと音楽監修担当のBill Oakes(ビル・オークス)は驚いて、そしてただ「凄い」の一言。

オークスは「Saturday Night Fever」がディスコの狂騒を始めたのではなく、ディスコは従来のコースを走っており、これを延命させただけと断言します。

死にかけているジャンルに新しい命を吹き込んだのです。

彼らの3枚のシングル、「How Deep Is Your Love(愛はきらめきの中に)」「Stayin' Alive(ステイン・アライヴ)」「Night Fever(恋のナイト・フィーバー)」は全米で3曲連続1位を獲得し、世界中でもチャートの高位置に付け、ディスコ絶頂期が始まりました。

How Deep Is Your Love(愛はきらめきの中に)

Bee Gees - How Deep Is Your Love (1977)

Stayin' Alive(ステイン・アライヴ)

Bee Gees - Stayin' Alive (1977)

Night Fever(恋のナイト・フィーバー)

Bee Gees - Night Fever (1977)

1977年はクリスマス・シーズンに始まるまでの9か月間、37週の内連続して27週間、彼らによって書かれた楽曲が全米No.1の地位を支配しました。上記3曲の他に2曲が Andy Gibb(アンディ・ギブ)、Yvonne Elliman(イヴォンヌ・エリマン)、そして「Grease」が Frankie Valli(フランキー・ヴァリー)により歌われたものです。

映画「サタデー・ナイト・フィーバー」の成功とともに、サウンドトラックはいくつかの業界記録を破り、4000万枚以上を売り上げ歴代4位に入るサウンドトラック・アルバムとなりました。

1978年3月には全米ビルボードチャートでは1位が「Night Fever(恋のナイト・フィーバー)」、2位が「Stayin' Alive(ステイン・アライヴ)」となり、ビートルズ以来上位2位を独占するグループとなりました。

また同時期、彼らの作による5曲(「Night Fever」、「Stayin' Alive」、「If I Can't Have You」、「Emotion」、「Love Is Thicker Than Water」)が同時に全米トップ10に入ります。このようなチャート支配は1964年、ビートルズが全米シングルチャートのトップ5を独占して以来のことでした。

バリーは「Stayin' Alive」、「Love Is Thicker Than Water」、「Night Fever」、「If I Can't Have You」の4曲が連続して全米No.1を達成した唯一のソングライターであり、 John Lennon(ジョン・レノン) と Paul McCartney(ポール・マッカートニー)の1964年の記録を破りました。

第20回グラミー賞では「How Deep Is Your Love(愛はきらめきの中に)」で最優秀ポップ・パフォーマンス賞デュオ/グループを受賞、翌年の第21回グラミー賞では「Saturday Night Fever - Soundtrack」が最優秀アルバム賞と最優秀ポップ・パフォーマンス賞デュオ/グループを、「Stayin' Alive(ステイン・アライヴ)」で最優秀ヴォーカル・アレンジ賞グループ部門を受賞しました。

同じ頃、バリーとロビンは歌手のSamantha Sang(サマンサ・サング)のために「Emotion(エモーション)」を書き、バッキングヴォーカルを担当、その曲は全米3位を記録しました。ミュージカル「Grease」は映画化され、バリーはそのタイトルソングを書き、Frankie Valli(フランキー・ヴァリー)が歌い、全米1位に輝きました。

ディスコバブルに伴う、Bee Gees(ビージーズ)の圧倒的な成功そして凋落。1979年の末までに、ディスコは急激にその人気を失い、反ディスコの風潮でBee Gees(ビージーズ)のアメリカにおけるキャリアは頓挫します。

全米あちこちのラジオ局が「Bee Gees Free Weekend(ビージーズのない週末)」を宣言、総すかんの有様でした。その後1989年まで、全米トップ10入りを果たすシングルが現れませんでした。

1980-1986 演奏者からソングライター、プロデューサーへ

1980年、バリーはBarbra Streisand(バーバラ・ストライザンド)のアルバム「Guilty」制作に参加、9曲を書き、内2曲がデュエットでした。アルバムは全米・全英で1位を記録、収録の「Woman in Love」は今日に至るまで彼女の最も成功した曲となりました。デュエット曲「Guilty」及び「What Kind of Fool」は全米トップ10を記録しました。

Barbra Streisand - Woman in Love (Official Audio)

1982年、 Dionne Warwick(ディオンヌ・ワーウィック)の自身の名を冠したアルバムは、多くが彼らの作であり、バリーとの共同プロデュースでしたが、収録の「Heartbreaker」は全英2位、そして全米アダルトコンテンポラリーでは1位を達成しました。

1983年、 Dolly Parton(ドリー・パートン)とKenny Rogers(ケニー・ロジャース)は彼らのペンによる「Islands in the Stream」が全米1位、全英トップ10入りを果たしました。

ロジャースのアルバム「Eyes That See in the Dark」の全曲が彼らの作であり、バリーとの共同プロデュースでした。アルバム全米トップ10ヒットとなり、ダブル・プラチナに認定されました。またこの年、映画「サタデー・ナイト・フィーバー」の続編、「ステイン・アライブ」が公開され、サウンド・トラックは全米トップ30ヒット「The Woman in You」を収録し、プラチナに認定されました。

1985年、Diana Ross(ダイアナ・ロス)はアルバム「Eaten Alive」をリリース。これは彼らによって書かれ、タイトルトラックはMichael Jackson (マイケル・ジャクソン)と共同で書かれたものです。バリーにより共同プロデュースされたシングル「Chain Reaction」は全英・全豪No.1ヒットとなりました。

このように80年代前半~中頃までグループのリリース頻度は激減し、プロデュース業に専念し制作側でヒット曲を量産するようなヒットメーカーへと変わっていきます。

1987-1999 再復活 Andy Gibb(アンディ・ギブ)の死

1987年、彼らは17thアルバム「E·S·P」をリリースし、300万枚以上を販売。6年ぶりのアルバムで、シングル「You Win Again(ユー・ウィン・アゲイン)」は英国を含む多くの国で1位になり、Bee Gees(ビージーズ)は60年代、70年代、80年代、それぞれの期間において全英No.1のヒットを記録した最初のグループとなりました。

E.S.P.
Bee Gees Catalog (2017-09-11)

しかし、全米では伸びず、75位止まりでした。1987年英国アカデミーのIvor Novello最優秀作詞作曲部門賞を受賞、1988年2月、ブリッド・アワードではBest British Group部門賞を受賞。

1988年10月、彼らの弟Andy Gibb(アンディ・ギブ)がウイルス感染による心筋炎が原因で亡くなってしまいます(享年30歳)。アルバム「One(ワン)」に収録の「Wish You Were Here(ウィッシュ・ユー・ワー・ヒア)」は彼を追悼したもので、同名シングル「One(ワン)」は10年ぶりに全米ビルボードで7位を記録しトップ10入りを果たし、アダルトコンテンポラリー部門では1位を記録しました。

1990年にリリースされたコンピレーション・アルバム「The Very Best of the Bee Gees(ザ・ベリー・ベスト・オブ・ザ・ビー・ジーズ)」は彼らの全英ヒット曲を収録、英国で最も売れたアルバムの一つになり、トリプルプラチナの認定を受けました。

1991年頃よりバリーは手術を必要とするような深刻な腰痛そして関節炎に悩まされ、モーリスはアルコール依存に悩まされるようになります。以後リリースするアルバムは商業的な成功は続きませんでしたが、1997年21stアルバム「Still Waters(スティール・ウォーターズ)」をリリースすると、イギリスで400万枚以上を売り上げ、全英チャートでは10年ぶりにトップ5入りとなる2位を記録、全米チャートでも11位を達成します。

スティル・ウォーターズ
ビー・ジーズ
ポリドール (1997-03-26)

1997年にはロックンロール殿堂入りを果たします。「Britain's first family of harmony(初めて英国からやって来たハーモニーの家族)」、贈呈者ブライアン・ウイルソンは彼らをこう紹介しました。

Bee Gees

1997年2月にてブリッド・アワードにて Outstanding Contribution to Musicを受賞。同年11月、ラスベガスにてライブ・コンサート「One Night Only」を行い、このライブCDは5万枚を売り上げました。コンサート名は最後のライブとなるかも知れないという意味でしたが、広範なファンの支持を得て、より成熟したワールド・ツアー「One Night Only」へと繋がって行きました。

2000-2008 Maurice(モーリス)の死

2001年、最後のアルバム「This Is Where I Came In(ディス・イズ・ホエア・アイ・ケイム・イン)」がリリース、メンバー各自が詞を書き、3人が共同で作曲したもので、全英チャートで6位、全米では16位を記録しました。2002年の「Love and Hope Ball」がトリオとしての最後のコンサートとなりました。

音楽的なリーダーであったモーリスは2003年1月、腸捻転の緊急手術を待つ間に、心臓発作で53歳の若さで亡くなってしまいます。バリーとロビンは当初、彼の記憶の中でBee Gees(ビージーズ)という名前を引き継ぐつもりだったと発表しましたが、時間が経つにつれて、彼らはグループからの引退することに決めます。第46回グラミー賞では、グラミー賞 特別功労賞伝説賞を受賞しました。

その後バリーとロビンは独立して仕事を続け、どちらも他のアーティストと一緒にレコーディングをリリースし、特別なイベントで一緒に演奏することもありました。2006年2月、バリーとロビンは、糖尿病研究所のためにマイアミのチャリティコンサートのためにステージで再会しました。モーリスの死後、彼らの最初の公演でした。2人は同年行われた第30回プリンストラストコンサートでも演奏しました。

2008年10月、ロビンはBBC Electric Promsサタデーナイトフィーバーパフォーマンスの一環としてロンドンで数曲を演奏しました。これには、他のさまざまなパフォーマーとBBCコンサートオーケストラが関与し、BBCとそのインタラクティブサービスで上映されました。

2009-2012 Robin(ロビン)の死 解散

2009年、ロビンはバリーと連絡を取り合っている事を明かし、Bee Gees(ビージーズ)の再始動に同意したことをあきらかにします。その後2人はいくつかのテレビ番組に出演し、2010年にはアメリカンアイドルの9シーズン目のフィナーレにサプライズ出演しました。

2011年にはロビンが肝臓癌と診断されたことが発表され、いくつかの仕事がキャンセル。2012年2月13日、ロビンは負傷した軍人を支援するために、ロンドンパラディウムで開催された英国軍トリオのカミングホームチャリティコンサートに参加しましたが、公の場に姿を現すのはこれが最後となってしまいます。同年5月、ロビンは肝臓がん治療入院中に肺炎に感染、肝・腎不全で62歳でこの世を去ります。バリー1人となってしまいBee Gees(ビージーズ)は解散となりました。

2013-present 現在

2013年、バリーは「兄弟と生涯の音楽に敬意を表して」初めてのソロツアーを行いました。翌2014年にはワーナーブラザーズが「The Warner Bros Years:1987–1991」をリリースします。その後バリーは息子のスティーブとテレビ番組などに出演することもありますが、現在のスタイルが大きく異なるためBee Gees(ビージーズ)の楽曲を使用することはないようです。2016年にはソロアルバム「In the Now」をリリースしています。

2017年にはCapitol Recordsからコンピレーション・アルバム「Timeless: The All-Time Greatest Hits」がリリース。「サタデー・ナイト・フィーバー」のサウンドトラック・アルバム発売40周年を記念したもので、選曲にはバリーも参加しています。

最後に

いかがでしたでしょうか?

Bee Gees(ビージーズ)の約50年に渡る歴史を凝縮して解説してまいりました。

50年の歴史を語るにはまだまだ多くの事がありますが、人生を伝記映画として120分に凝縮するようなもので、このような記事はBee Gees(ビージーズ)をより知ってもらうためのものです。

特に60年代~80年代にかけて多く存在しているヒット曲を知らない世代の方にもBee Gees(ビージーズ)の魅力が少しでも伝わればと思います。

以上、Bee Gees(ビージーズ)についてご紹介しました。

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Writer この記事を書いた人

ISAO:洋楽まっぷ専属ライター
映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、
気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。
http://isao-scrapbook.blog.jp/