プロフィール

Aerosmith(エアロスミス)のプロフィール、歌詞一覧、アルバム・シングルを網羅したディスコグラフィーをご紹介。最新の洋楽はここからチェック。
Aerosmith(エアロスミス)は、1970年にボストンで結成されたアメリカのロックバンド。メンバーはリードボーカルのSteven Tyler(スティーブン・タイラー)、ギターのJoe Perry(ジョー・ペリー)、同じくギターのBrad Whitford(ブラッド・ウィットフォード)、ベースのTom Hamilton(トム・ハミルトン)、ドラムのJoey Kramer(ジョーイ・クレイマー)の5人。
史上最も売れたアメリカのハードロックバンドで、全世界で1億5,000万枚以上のレコードを売り上げており、そのうちアメリカ国内だけで8,500万枚以上を売り上げている。
スティーブン・タイラーは1964年頃からニューヨークのヨンカーズでStrangeurs(ストレンジャーズ)、Chain Reaction(チェーン・リアクション)などのバンドを結成し活動していた。
一方、ペリーとハミルトンは、フリーフォームとブルースをベースにしたジャムバンドを結成。2人は1969年9月にマサチューセッツ州ボストンに引っ越し、そこで彼らはニューヨーク州ヨンカーズのドラマー、ジョーイ・クレイマーに会った。クレイマーはタイラーを知っていて、いつも彼と一緒にバンドで演奏することを望んでいた。当時バークリー音楽大学の学生だったクレイマーは学校をやめてジャムバンドに加わることになる。
1970年、両バンドが同じギグで演奏する機会があり、その際にタイラーがジャムバンドのサウンドを気に入り、2つのバンドを合わせたいと考えるようになる。
同年10月、バンドは再び集まり、チェーン・リアクションでドラマー兼バックアップシンガーを務めていたタイラーは、この新しいバンドでドラムを演奏することを断固として拒否し、フロントマンでリードボーカルになれる場合にのみ参加することを主張した。他の人たちも同意し、新しいバンドが結成。バンドはボストンに引っ越し、そこで一緒に音楽を書いたりリハーサルを行うようになる。
バンド名の由来はクレイマーがHarry Nilsson(ハリー・ニルソン)のアルバム『Aerial Ballet(エアリアル・バレエ)』を聞いて閃いたとされており、他にも候補があった中最終的にエアロスミスで落ち着いた。
すぐに、バンドはタイラーの幼なじみであるRay Tabano(レイ・タバーノ)をリズムギタリストとして雇い、地元のショーを演奏し始めたが、翌71年にタバーノは脱退。変わりにバークリー音楽大学にも通っていたブラッド・ウィットフォードが加入した。
バンドは地元で成功をおさめ、プロモーターのFrank Connelly(フランク・コネリー)とプロモーション契約を結び、最終的には1972年にDavid Krebs(デビッド・クレブス)とSteve Leber(スティーブ・リーバー)とマネジメント契約を結んだ。
クレブスとリーバーはバンドを見せるためにコロムビア・レコードのClive Davis(クライヴ・デイヴィス)社長を招待。これをきっかけに同年、125,000ドルでコロンビアと契約し、翌1973年、デビュー・アルバム『Aerosmith(邦題:野獣生誕)』をリリース。ビルボードのアルバムチャート、ビルボード200では21位を記録。代表曲のひとつでもあるデビューシングル「Dream On」はその年ビルボードホット100で59位を記録した。
リリース後はツアーを続けながらすぐに次の作品にも着手し、2ndアルバム『Get Your Wings(邦題:飛べ!エアロスミス)』を翌1974年に、3rdアルバム『Toys in the Attic(邦題:闇夜のヘヴィ・ロック)』を1975年にリリース。同年はシングル「Sweet Emotion」、「Walk This Way」が立て続けに大ヒット。国際的なスターとして確立。『Toys in the Attic』は最終的にアメリカだけで900万枚を売り上げた。
大ブレイクを果たした中で旧作のセールスも伸び、翌1976年に再発売された「Dream On」はビルボードホット100で6位にランクインし、初のトップ10入りを果たした。
また同じ頃、バンドはマサチューセッツ州ウォルサムに「A.Wherehouse」という名の倉庫を本拠地を設立し、そこで音楽の録音とリハーサルを行い、ビジネスを行っていた。倉庫には、バンドのメンバーが車を駐車するガレージ、バンドのスタッフのための2階のオフィス、バンドが頻繁に音楽のリハーサル、書き込み、録音を行う地上レベルのレコーディングスタジオとステージが用意された。バンドはここでもミーティングを開き、建物を使ってパーティーなどにも利用された。この建物は80年代まで使用していた。
同年リリースの4thアルバム『Rocks(ロックス)』はビルボード200で3位を記録し、アメリカだけで400万枚を売り上げた。その後バンドは大規模なツアーを続け、今回は大規模なスタジアムやロック・フェスティバルなどの独自のショーのヘッドラインを飾った。
1977年、5thアルバム『Draw the Line(ドロー・ザ・ライン)』をリリース。バンドはアルバムをサポートするために広範囲にツアーを行ったが、薬物乱用とツアーとレコーディングのペースの速い生活が彼らのパフォーマンスに影響を及ぼし始めた。
タイラーとペリーは、ステージの内外での薬物乱用で悪名高いことから、「有毒な双子」として知られるようになった。
タイラーは後に「私は麻薬に6400万ドルを費やした」とコメントし、ペリーは後で嘲笑している。しかし当時は2人の関係悪化が進み、1979年7月のワールド・シリーズ・オブ・ロック・フェスティバルのヘッドライナーを務め出演した際に些細な出来事からバンド内で大喧嘩が起こり、ジョーがバンドを脱退する事態にまで発展した。
制作途中であった6thアルバム『Night in the Ruts(ナイト・イン・ザ・ラッツ)』ではジョーに代わるギタリストとしてブラッド・ウィットフォードがリードパートの一部を引き継ぎ、新たにJimmy Crespo(ジミー・クレスポ)を加入しアルバム制作を続行し完成させた。
その後アルバムのツアーを行うがバンドの人気が衰え始めたため、以前よりもますます小さな会場で演奏するようになり、さらにタイラーの麻薬問題は彼のパフォーマンスと作詞作曲に影響を及ぼし始め、ついにはメイン州ポートランドでのショーの間にステージで倒れてしまう。
80年代に入ると更に勢いが落ち着き、このタイミングで初のコンピレーション・アルバム『Greatest Hits(グレイテスト・ヒッツ)』をリリース。さらにタイラーは重大なオートバイ事故で負傷し2か月間入院。1981年までツアーやレコーディングを行うことができなかった。
1981年にはブラッド・ウィットフォードも脱退。新たにRick Dufay(リック・デュファイ)を迎え7thアルバム『Rock in a Hard Place(邦題:美獣乱舞)』を完成させ、翌1982年にリリース。同年行われたマサチューセッツ州ウースターで開催されたホームカミングアリーナショーで、タイラーとペリーは再会し、ショーの前に舞台裏でハイになってしまい、タイラーは酔っ払っていたため、ステージで再び倒れてしまう。
1984年2月、エアロスミスのボストン公演をジョーとブラッドが訪れ、その後議論が2つをバンドに再統合し始め、数か月後、エアロスミスの元のメンバーが正式に再会した。
ドラッグ、アルコールは残るものの、ゲフィン・レコードと新たに契約し、『Back in the Saddle Tour』と呼ばれるツアーを開催。翌1985年には初めて前作から3年という間が空いたものの5人での制作となった8thアルバム『Done with Mirrors(ダン・ウィズ・ミラーズ)』をリリース。
1986年、Run-DMC(ランDMC)が「Walk This Way」のカバーをリリース。ロックンロールとヒップホップをブレンドしたトラックという異色のコラボが大きな話題を呼び、ビルボードホット100で4位を記録。この曲と頻繁に放映されたミュージック・ビデオも人気となり、バンドの音楽を新世代に紹介することでエアロスミスのキャリアを復活させた。
彼らの復活のパフォーマンスにもかかわらず、バンドメンバーの麻薬問題はまだ彼らの邪魔をしていた。
同年タイラーは仲間のバンドメンバー、医師、マネージャーのTim Collins(ティム・コリンズ)の介入を受けて、薬物リハビリプログラムを成功させた。コリンズは、タイラーが時間内に治療を受けなければバンドの未来は明るくないと信じていた。残りのバンドメンバーも、今後数年間で薬物リハビリプログラムを完了した。
1987年にリリースされた9thアルバム『Permanent Vacation(パーマネント・ヴァケイション)』は500万枚を売り上げ、約10年ぶりに好セールスを記録。Desmond Child(デズモンド・チャイルド)がアルバムの中から3曲の楽曲制作に参加し、そのうちシングル化された「Dude (Looks Like a Lady)」はビルボードホット100で14位を記録。8年ぶりのチャート入りを果たし、また初めて全英チャートなど複数の国にランクインするなど世界的な成功をおさめた。
更に3枚目のシングル「Angel」ではビルボードホット100でトップ3入りを果たし、アルバムセールスを後押しした。
10thアルバム『Pump(パンプ)』は全米5位、全英3位など国際的な成功となり、全世界で1100万枚を売り上げた。アルバムからのシングル「Love in an Elevator(邦題:エレヴェイター・ラブ)」はRIAAで初めてゴールド認定を受けるヒットとなり、第32回グラミー賞で初めて最優秀ハード・ロック・パフォーマンス賞にノミネート。翌年のグラミー賞では「Janie's Got A Gun」が最優秀ロック・パフォーマンス賞ヴォーカル入りデュオまたはグループ部門で初の受賞を果たしました。
少しの休業を挟みながら1993年にリリースされた11thアルバム『Get a Grip(ゲット・ア・グリップ)』はビルボード200で初の1位を獲得。現在までに世界中で2000万部以上を売り上げている代表作のひとつとなっている。
シングルも立て続けにヒットし、特にタイラーの娘でLiv Tyler(リヴ・タイラー)やAlicia Silverstone(アリシア・シルバーストーン)など女優を起用したミュージック・ビデオも人気となった。
アルバムからは「Livin' On The Edge」が1993年、「Crazy」が1994年のグラミー賞で最優秀ロック・パフォーマンス賞ヴォーカル入りデュオまたはグループ部門の受賞を果たした。「Cryin'」がMTVビデオ・ミュージック・アワードの最優秀賞に当たる「ビデオ・オブ・ザ・イヤー」を含む、3部門でそれぞれ受賞している。
バンドは家族と一緒に休暇を取った後、次のアルバムである『Nine Lives(ナイン・ライヴズ)』に取り組み始めた。このアルバムは、バンドのメンバーによると、バンドを解散させそうになったティム・コリンズの解雇など、人事上の問題に悩まされていた。
プロデューサーも変更となり、コロムビアとの新しい契約のためにレコーディングを開始できるようになった。アルバムは2作目となる全米1位を獲得し、シングルでは「Pink」が第41回グラミー賞で最優秀ロック・パフォーマンス賞ヴォーカル入りデュオまたはグループ部門で受賞を果たした。
その後、2年以上にわたるナイン・ライヴズ・ツアーが続くが、その間コンサートでタイラーが足を負傷し、ジョーイが車がガスで発火したときに2度目の火傷を負ったなどの問題に悩まされた。
ライブを中断している間、映画『アルマゲドン』の主題歌「I Don't Want to Miss a Thing(邦題:ミス・ア・シング)」をリリース。ミュージック・ビデオはタイラーが足を負傷していたためクローズアップされた映像を中心に作られた。ビルボードホット100では4週連続首位を獲得。バンド初の首位となり、再開されたナイン・ライヴズ・ツアーでも披露された。
2001年3月、バンドは13thアルバム『Just Push Play(ジャスト・プッシュ・プレイ)』をリリース。初めてバンドメンバー自身でプロデュースした今作はリードシングル「Jaded」はビルボードホット100で7位を記録するヒット。日本ではコカ・コーラのCMソングに起用されたり、プロモーションでテレビ番組「ミュージック・ステーション」にも出演した。
同年、バンドは「ロックの殿堂」入りを果たし、史上初となるヒット中の曲があるバンドが殿堂入りしたことでも話題となった。翌2002年、コンピレーション・アルバム「O, Yeah! Ultimate Aerosmith Hits(邦題:アルティメイト・エアロスミス・ヒッツ)」をリリース。アメリカだけで300万枚以上を売り上げた。
2004年には1950年代と1960年代のブルースとブルースロックの11曲のカバーを中心に構成された14thアルバム『Honkin' on Bobo(ホンキン・オン・ボーボゥ)』をリリース。
その後はツアーがベースとなりながらもペリーのソロ活動やタイラーの映画出演などを行っていたが、バンド活動を休みたいタイラーとバンド活動に長期間の空白を作りたくないメンバー間に軋轢が生じていた。
2007年には契約上のアルバム制作に取り掛かり始める。バンドは2009年6月にツアーが始まる前にアルバムを完成させることを望んでいたが間に合わず、ツアーを先に開始するが、メンバーの怪我や健康上の問題などがあり、最終的に2009年8月5日、タイラーはサウスダコタ州スタージスでのコンサートでステージから落ちた後、病院に運ばれ頭と首の怪我と肩の骨折の治療を受けた。
タイラーの怪我をきっかけに、バンドはカナダ西部での5つのショーを延期することを余儀なくされた。結局タイラーの負傷のため、ZZトップでの残りの米国ツアー日程をキャンセルすることを決定したと発表した。その後10月中旬にハワイで2つのショーで復帰している。
延期されていた15thアルバム『Music from Another Dimension!(ミュージック・フロム・アナザー・ディメンション!)』は2012年にリリースされ、現在までに最後のスタジオ・アルバムとなっている。そのツアーなどを不定期で行うも解散宣言をするなどバンド内での方向性にばらつきが生じ始める。
2021年8月23日、ユニバーサル・ミュージックと全世界的パートナーシップを結んだことを発表。これにより米コロムビア時代の作品を含む全作品がユニバーサル・ミュージックに集約された。
2023年5月、バンドは9月から始まる『ピースアウト:ザ・フェアウェル・ツアー』と呼ばれるお別れツアーを発表するも、ツアー開始直後、スティーブン・タイラーが9月9日の公演中に声帯に重傷を負ったため、ツアーが翌年に延期されることが発表された。
しかしタイラーの声が回復せず、2024年8月、ツアーを正式に中止することが発表された。
歌詞カタカナ
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Aerosmith
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