プロフィール

Bon Jovi(ボン・ジョヴィ)のプロフィール、歌詞一覧、アルバム・シングルを網羅したディスコグラフィーをご紹介。最新の洋楽はここからチェック。
Bon Jovi(ボン・ジョヴィ)は、トータルセールス1億2,000万枚以上を誇るニュージャージー州セアビルのアメリカンロックバンド。
現メンバーはJon Bon Jovi(ジョン・ボン・ジョヴィ)、David Bryan(デヴィッド・ブライアン)、Tico Torres(ティコ・トーレス)、Hugh McDonald(ヒュー・マクドナルド)、Phil X(フィル・X)、Everett Bradley(エヴェレット・ブラッドリー)、John Shanks(ジョン・シャンクス)の7人編成。
Jon Bon Jovi(ジョン・ボン・ジョヴィ)は1975年、13歳でRaze(レイズ)という名のバンドを結成し、音楽活動を開始。ピアノとギターを担当し、ライヴも行っていた。
その後16歳の時にDavid Bryan(デヴィッド・ブライアン)と知り合い、共にAtlantic City Expressway(アトランティック・シティ・エクスプレスウェイ)という名のバンドを結成した。
その後の10代は、John Bongiovi and the Wild Ones(ジョン・ボンジョヴィ・アンド・ザ・ワイルド・ワンズ)というバンド名でファスト・レーンなどのクラブで演奏し、地元のバンドの前座を務めた。
ジョンは他にも別のバンド、The Rest(ザ・レスト)を結成し、Southside Johnny(サウスサイド・ジョニー)やAsbury Jukes(アズベリー・ジュークス)などのニュージャージーのバンドの前座を務めた。
1980年、ジョンは従兄弟のスタジオで、スタジオ・ミュージシャンのバックコーラスで最初のシングル「Runaway(邦題:夜明けのランナウェイ)」を録音。この曲は地元のラジオ局のコンピレーションテープで放送された。
2年後、従兄弟のTony Bongiovi(トニー・ボンジョヴィ)が共同経営者を務めるマンハッタンのレコーディング施設、パワー・ステーション・スタジオに就職。ジョンはBilly Squier(ビリー・スクワイア)がプロデュースしたデモを含むいくつかのデモを制作し、レコード会社に送ったが、ヒットには至らなかった。
この過程で「Runaway」の再レコーディングを行った際に、後にメンバーとなる当時スタジオミュージシャンのヒュー・マクドナルドがベースで参加している。
翌1983年、ジョンはニューヨーク州レイクサクセスの地元ラジオ局WAPP 103.5FM「The Apple」を訪れ、同局のジングルを書き、歌うこととなった。
プロモーション・ディレクターのJohn Lassman(ジョン・ラスマン)は、ジョンにWAPPの地元出身の才能を集めた同局のコンピレーションアルバムに「Runaway」という曲を入れることを提案。ジョンは乗り気ではなかったものの、再レコーディングした「Runaway」を渡した。
この曲はニューヨーク周辺で放送され始め、その後主要市場の他の姉妹局もこの曲を取り上げられるようになったことで、ジョンはデヴィッドに連絡を取る。
デヴィッドは医学を学ぶためにバンドを辞めていたが、大学在学中、ブライアンは音楽をフルタイムで追求したいと思い、ニューヨークの音楽学校ジュリアード音楽院に入学。しかしジョンの電話でレコード契約できそうだと言われたことをきっかけに学業を断念した。
ジョンからの連絡を受けて、デヴィッドは当時Phantom's Opera(ファントムズ・オペラ)というバンドに所属していたベーシストのAlec John Such(アレック・ジョン・サッチ)と経験豊富なドラマーのティコ・トーレスに連絡を取り、彼らと共に短期的なツアーを行う。
この時ギターを担当したのはジョンの友人で隣人のDave Sabo(デイヴ・セイボ)だった。ジョンとデイヴは通りを挟んだ向かいに住んでいて、幼馴染でもあった。しかし彼は正式にバンドに参加することはなかった。2人はどちらが先に成功したとしても、もう一方を手助けすることを約束。デイヴはその後Skid Row(スキッド・ロウ)を結成。ジョンはバンドを支援し彼らの成功に貢献している。
アレックとティコはジョンに、地元のギタリストRichie Sambora(リッチー・サンボラ)を推薦する。
リッチーの加入によってデビュー時のメンバー5人が揃うこととなる。
地元の才能あるアーティストのオープニングを務めるようになると、レコード会社の重役でポリグラム社の一員だったDerek Shulman(デレク・シュルマン)の目に留まる。
これをきっかけとしてバンドはマーキュリー・レコードと契約。当時からマネジメントを行っていたDoc McGhee(ドック・マギー)のところで働いていた従業員がVan Halen(ヴァン・ヘイレン)のような名前から取って『Bon Jovi(ボン・ジョヴィ)』と呼ぶことを提案した事がきっかけでバンド名がボン・ジョヴィとなる。
その後ドック・マギーの力を借りて、1984年、デビュー・アルバム『Bon Jovi(邦題:夜明けのランナウェイ)』をリリースした。
『Bon Jovi』からは「Runaway」が先行シングルとしてリリースされ、同曲がデビュー・シングルとなった。全米ビルボードホット100では39位とトップ40入りを果たし、アルバムも人気を得た。ビルボード200アルバムチャートで最高43位を記録。その他、オーストラリア、フィンランド、ニュージーランド、スペインではトップ40入りを果たし、全世界で350万枚のヒットとなった。
日本では同年5月に「Runaway」の邦題「夜明けのランナウェイ」がそのままアルバムタイトルとなってリリース。夏に行われた『SUPER ROCK '84 IN JAPAN』に出演するため初来日を果たした。「Runaway」は翌1985年歌手の麻倉未稀によってカバーされた。
バンドはすぐにアメリカではScorpions(スコーピオンズ)の、ヨーロッパではKISS(キッス)のオープニング・アクトを務めることになった。
翌1985年、続く2枚目のスタジオ・アルバム『7800° Fahrenheit』も300万枚と早くから世界中で人気バンドとなったが、1986年、シングル「You Give Love a Bad Name(邦題:禁じられた愛)」が全米ビルボードホット100で初の1位を獲得し、続くシングル「Livin' on a Prayer」も1位を獲得。これらが収録された3枚目のスタジオ・アルバム『Slippery When Wet(邦題:ワイルド・イン・ザ・ストリーツ)』が全世界で2800万枚を売り上げ一躍ビッグアーティストに。
『Slippery When Wet』はビルボード200で8週連続1位を獲得。バンドはアメリカン・ミュージック・アワードで最優秀ポップ/ロック・バンド賞[30]を受賞し、ピープルズ・チョイス・アワードでは最優秀ロック・グループ賞を受賞した。
バンドは『Slippery When Wet』の成功がまぐれではなかったことを証明するために、当時行われていたツアー『Slippery When Wet Tour』が終了した1987年、1カ月ほど休んだ後すぐに次のアルバムに着手した。
アルバムは当初ダブルアルバムになる予定だったが、レコード会社は価格の高騰を懸念してこのアイデアを却下。前作に続きBruce Fairbairn(ブルース・フェアベアン)がプロデュースを担当した。
ジョンとリッチーは17曲のデモを作るもプレッシャーとの戦いとなった。ジョンは「You Give Love a Bad Name」のような曲が書けなくなるのではないかという恐怖が本当にあったことを後に語っている。バンドはアルバムで多様性を見せたいと考えていたこともあり、アルバムはより実験的なものとなった。そうして完成したのが『New Jersey』だ。
アルバムは翌1988年にリリースされると、アメリカ、カナダ、イギリス、アイルランド、ニュージーランド、オーストラリアで1位を獲得した。このアルバムからはビルボード・ホット100でトップ10ヒットが5曲生まれ、ボン・ジョヴィはハードロック・アルバムから生まれたトップ10シングルの最多記録を作った。
1989年から1990年にかけて、アルバムをサポートするため再び大規模なワールドツアーを敢行した。彼らは22カ国以上を訪れ、232回以上の公演を行った。1989年8月にはモスクワ音楽平和フェスティバルのためにソ連に向かった。ボン・ジョヴィはソ連政府からソ連での公演を正式に認可された最初のバンドであり、『New Jersey』はソ連で合法的にリリースされた最初のアメリカのアルバムとなった。
ここまでアルバム制作から長期的なツアーをほぼ休むことなくこなしてきたこともあり、『The New Jersey Tour』終了後、それぞれ家路へと向かい、次のアルバムを作る意欲もなく個人のプロジェクトを行うようになる。
現状に不満だったジョンは1991年にマネージメント、ビジネスアドバイザー、エージェントを解雇。その中には長年のマネージャーでもあるドック・マギーも含まれていた。
ジョンは団結してボン・ジョヴィ・マネージメントを設立し、自らマネージメントの責任を引き受けた。
同年、バンドは将来の計画を話し合い、翌1992年1月から5枚目のスタジオ・アルバムを制作し始める。
ブルース・フェアベアンと連絡を取り再びプロデュースを依頼するも、彼が当時Aerosmith(エアロスミス)のアルバム『Get a Grip』に着手していたため断念。
当時大ヒットを飛ばしていたMetallica(メタリカ)のセルフタイトルアルバムのプロデュースに参加していたBob Rock(ボブ・ロック)がプロデュースに参加し、アルバムは約7か月かけて制作された。
これまでのイメージを一新し、ジョンは長かった髪を切った。メディアはジョンの新たなヘアスタイルにも注目した。
こうして前作から4年ぶりとなったアルバム『Keep the Faith』は同年リリースされるが、商業的には過去2作を大きく下回った。しかしこれは90年代に入りオルタナティブ・ロックが全盛期であったことや、1980年代に活躍したハードロック・バンドの多くが低迷していた時期でもあった。
アメリカでの売り上げが下回るも世界での人気は健在だったこともあり、トータル1200万枚を記録。3作連続での1000万枚超えを達成した。
1994年10月、ボン・ジョヴィは「Always」と「Someday I'll Be Saturday Night」という2つの新曲を含む初のベスト・アルバム『Cross Road』をリリースした。
アルバムからのファースト・シングルとなった「Always」はビルボードホット100で4位を記録。さらにトップ10に6か月間留まるという当時としては異例のロングヒットとなった。他にもいくつかの国で1位を獲得し、バンドにとって90年代最大のヒットシングルとなった。
『Cross Road』は商業的にも大成功を収め、13か国で1位を獲得。日本のオリコンチャートでも初の1位を獲得し、ミリオンセラーを記録。世界的には2150万枚以上を売り上げた。
1994年にはベストアルバムがヒット中のなか6thアルバム『These Days』をリリース。アメリカでの売り上げは更に落ち込んでしまうものの、日本やイギリスを中心に世界的な人気から1000万枚をセールス。以後1995年までツアーを行い、終了後はバンド活動を休止し、再びソロ活動に入ります。
2000年、7thアルバム『Crush』をリリース。リードシングルとなった「It's My Life」はプロデューサーMax Martin(マックス・マーティン)と共作し、世界中で大ヒット。2000年代以降の代表作となる。第43回グラミー賞ではシングル・アルバムが初めてノミネートされた。
2000年以降はCD不況などからセールスは落ち込むものの、安定した人気を誇り2002年リリースの8thアルバム『Bounce』はビルボード200で2位を記録し、初登場でのバンド最高位を記録。また日本では海外アーティスト初となる5大ドームツアーを開催。
2007年リリースの10thアルバム『Lost Highway』をリリースすると、ビルボード200で19年ぶりに1位を獲得。以降スタジオ・アルバムをリリースしワールド・ツアーを開催する事が多くなり、再び全米1位を獲得していくようになる。
1994年にアレックが脱退、以降はヒュー・マクドナルドがサポートメンバーとして参加し約20年、4人で活動を行ってきたが、2014年にリッチーが事実上の脱退。その後2016年よりサポートメンバーだったヒュー・マクドナルドとフィル・Xが正式なメンバーとなり現在は5人編成になっている。
2017年には2018年度のロックの殿堂に殿堂入りが決まり、翌年4月に記念式典が開かれ、アレックとリッチーが参加し、出身地でもあるニュージャージー州の知事は式典が行われた4月14日をBon Jovi Dayとして制定された。
2019年には新たなアルバムをリリースし、ツアーをするために準備していたが、COVID-19パンデミックのためにツアーはキャンセル。アルバム『2020』は予定より5ヶ月遅い10月にリリースされた。
2022年に入りようやくツアー開催を発表。ツアー中のジョン・ボン・ジョヴィのボーカルパフォーマンスの質が話題となったこともあり、ジョンは手術を決断。リハビリを行ってきた。また同年6月5日、アレックが心臓発作により死去。
2024年4月、バンドを追った4部構成のドキュメンタリーシリーズ『Thank You, Goodnight: The Bon Jovi Story』がHuluとDisney+で初公開された。このシリーズは、バンドのメンバーや一緒に仕事をした人たちへのインタビューを交えながらバンドの全歴史を記録し、ジョン・ボン・ジョヴィの健康状態と声帯の懸念を受けて「将来を計画」している現在の2022年のツアーのラインナップを追っている。
同年6月には16枚目のスタジオ・アルバム『Forever』をリリース。ビルボード200で5位を記録。本作は、長年のプロデューサーであるジョン・シャンクスとリズムギター、エヴェレット・ブラッドリーがバックボーカルとして正式メンバーとして参加し、7人編成でレコーディング・リリースされた初のスタジオ・アルバムとなった。
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