ソウルの境界線を超越したMarvin Gayeの激動の歴史を7つの時代に凝縮して解説

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洋楽コラム

Marvin Gaye(マーヴィン・ゲイ)は、1960年代、モータウンのサウンド形成に貢献し、最初はセッション・プレイヤーとして、後にはソロ・アーティストとしてヒット曲を連発したミュージシャン。「Prince of Motown(モータウンのプリンス)」、または「Prince of Soul(ソウルのプリンス)」とも呼ばれています。

今回はMarvin Gaye(マーヴィン・ゲイ)の激動の活動の歴史を7つの時代に凝縮して解説していこうと思います。

Marvin Gaye(マーヴィン・ゲイ)のプロフィール

Marvin Gaye

Marvin Gaye(マーヴィン・ゲイ)はワシントンD.C.出身のシンガー、ソングライター、レコードプロデューサー。

44歳と言う若さで亡くなるまでに「I Heard It Through The Grapevine(邦題:悲しいうわさ)」や「Ain’t No Mountain High Enough(エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ)」など、数々の名曲を世に送り出してきました。

CHECK!!
Marvin Gaye(マーヴィン・ゲイ)のプロフィール・バイオグラフィーまとめ

それではマーヴィン・ゲイの幼少期からのキャリアを見ていきましょう。

Marvin Gaye(マーヴィン・ゲイ)のキャリア

1939-1956 幼少期から高校中退まで

1939-1956 幼少期から高校中退まで

マーヴィンは1939年4月2日、ワシントンD.C.のフリードマン病院で教会の牧師であるMarvin Gay Sr.(マーヴィン・ゲイ・シニア)と家事労働者のAlberta Gay, née Cooper(アルバータ・ゲイ)の間にMarvin Pentz Gay Jr.(マーヴィン・ペンツ・ゲイ・ジュニア)として生まれました。彼の最初の住居は、サウスウェスト・ウォーターフロントにある公営住宅フェアファックス・アパートでした(現在は取り壊されています)。

マーヴィンは4人兄弟の2番目で長男でした。彼にはJeanne(ジャンヌ)とZeola(ゼオラ)という2人の姉妹と、Frankie Gaye(フランキー・ゲイ)という1人の弟がいました。また、2人の異母兄弟もいました。Michael Cooper(マイケル・クーパー)は母親が今の父親と結婚する前の息子で、Antwaun Carey Gay(アントワウン・キャリー・ゲイ)は父親と不倫相手のあいだに生まれました。

家族はペンテコステ派の教会に通っており、マーヴィンは4歳のときに聖歌隊に参加し始めます。教会はペンテコステ派の教えを取り入れ、厳格な行動を提唱し、旧約聖書と新約聖書の両方をかたくなに守っていました。マーヴィンは幼い頃から歌が好きで、11歳の時に学校の劇でMario Lanza(マリオ・ランザ)の「Be My Love」を歌ったのがきっかけでプロの音楽家としての道を歩むようになりました。

マーヴィンはシファクス小学校からランドール中学校に進み、さらに歌に真剣に取り組み始め、グリークラブに参加しました。1953年頃、家族はワシントンDCのCapitol Viewの公営タウンハウス・アパートに引っ越し、1962年まで住んでいました。

マーヴィンは後に家族が父親の絶対的な支配力の中で暮らしていたことを明かしており、12歳ころまで父親に殴られアザだらけだったと語っています。一方でこういった日々の暮らしから音楽に没頭するきっかけが生まれ、この時期にピアノやドラムを習得し、音楽の下地を養っていきます。

高校へ進学するといくつかのドゥーワップ・グループに参加するようになります。一方で父親との関係は悪化し、父親は彼を頻繁に家から追い出すようになりました。1956年、マーヴィンは高校を中退し、基本航空兵として米国空軍に入隊しますが、下働きに失望し、精神疾患を偽り除隊しました。 マーヴィンは「一般除隊」を命じられました。

1957-1961 The Marqueesの結成~解散、ソロデビュー

1957-1961 The Marqueesの結成~解散、ソロデビュー

復帰後、マーヴィンは親友のReese Palmer(リース・パーマー)とヴォーカルのカルテット、The Marquees(マーキーズ)を結成し、すぐにロックンロール・シンガーのBo Diddley(ボ・ディドリー)と活動を始めます。ボ・ディドリーはグループを自身のレーベルであるチェス・レコードに署名できなかったため、コロンビアの子会社であるオーケー・レコードに譲渡しました。グループはボ・ディドリーとの共作で唯一のシングルとなった「Wyatt Earp(ワイアット・アープ)」がチャートインに失敗したため、彼らはレーベルから脱退しました。マーヴィンはこの時期に作曲を始めるようになります。

The Marquees – Wyatt Earp – YouTube

ドゥーワップ・グループ、The Moonglows(ザ・ムーングロウズ)のバリトン担当者、Harvey Fuqua(ハーヴィー・フークワ)は後にマーキーズを従業員として雇いました。フークワの指揮の下、グループ名をHarvey and the New Moonglows(ハーヴェイ・アンド・ザ・ムーングロウズ)に変更し、シカゴに転居しました。

グループは1959年にチェス・レコードのためにいくつかの曲を録音しましたが、その中にはマーヴィンが初めてリード・ボーカルを録音した「Mama Loocie(ママ・ルーシー)」も含まれていました。グループはChuck Berry(チャック・ベリー)などのセッション・シンガーとして活躍し、「Back in the U.S.A.(バック・イン・ザ・U・S・A)」や「Almost Grown(オールモスト・グロウン)」などのヒット曲を歌いました。

1960年、グループは解散。マーヴィンはフークワと共にデトロイトに移り住み、セッション・ミュージシャンとしてTri-Phiレコードと契約。レーベルからリリースしたいくつかの曲でドラムを演奏しました。1960年、モータウンの社長Berry Gordy(ベリー・ゴーディ)はマーヴィンの歌に感銘を受け、すぐさまフークワと交渉、持分の一部を買い取りました。

マーヴィンはモータウンの子会社であるタムラ・モータウンと契約したとき、R&Bのパフォーマーになりたいとは思わず、ジャズやスタンダードのパフォーマーとしてのキャリアを目指しました。最初のシングルをリリースする前に、マーヴィンはSam Cooke(サム・クック)と同じ手法で苗字の綴りに「e」を加え、「Marvin Gay → Marvin Gaye」としました。後に伝記などの作家として知られるDavid Ritz(デヴィッド・リッツ)は、「自分と父親との間に距離を置くため」だと書いています。

マーヴィンは1961年5月にファースト・シングル「Let Your Conscience Be Your Guide(レット・ユア・コンシエンス・ビー・ユア・ガイド)」をリリースし、その1ヶ月後にデビュー・スタジオ・アルバム「The Soulful Moods of Marvin Gaye(ザ・ソウルフル・ムーズ・オブ・マーヴィン・ゲイ)」をリリースしました。

デビュー・アルバムは商業的に失敗し、この年のほとんどはThe Miracles(ミラクルズ)やThe Marvelettes(マーヴェレッツ)、ブルース・アーティストのJimmy Reed(ジミー・リード)などのアーティストのために週5ドルでドラマーとしてセッションを行っていました。

1962-1967 成功とタミー・テレル

1962-1967 成功とタミー・テレル

出典:Wedding DJs’ 100 Most Popular Party Songs: Critics’ Picks – Billboard

1962年、マーヴィンは後にCarpenters(カーペンターズ)もカバーしたマーヴェレッツのヒット曲「Beechwood 4-5789(恋のビーチウッド)」の共同作曲者として成功を収めました。また同時期にリリースした4枚目のシングル「Stubborn Kind of Fellow(スタボン・カインド・オブ・フェロウ)」はビルボードに初めてチャートインを果たし、ホット100では46位、R&Bチャートで8位を記録します。

Marvin Gaye – Stubborn Kind of Fellow – YouTube

プライベートでは1963年にモータウンの創始者Berry Gordy(ベリー・ゴーディ)の姉Anna Gordy(アンナ・ゴーディ)と結婚。徐々に人気を獲得し始めたマーヴィンは、翌1963年のシングル「Pride and Joy(プライド・アンド・ジョイ)」でトップ10入りを果たします。これらのシングルと1962年のセッションの曲は、1963年1月にリリースされた2枚目のスタジオ・アルバム「That Stubborn Kinda Fellow(ザ・スタボン・カインド・オブ・フェロウ)」に収録されています。

この時期行われていたモータウンのスーパースター達が行ったコンサート・ツアー「モータータウン・レヴュー」に参加していたマーヴィンは、アポロシアターでの撮影公演も行われました。その後リリースされたシングル「Can I Get a Witness(キャン・アイ・ゲット・ア・ウィットネス)」は、後に多くのミュージシャンにカバーされる人気曲となりました。

1964年、モータウンの初の女王と呼ばれるMary Wells(メアリー・ウェルズ)とのデュエット・アルバム「Together(トゥゲザー)」をリリースし、ビルボードのポップ・アルバム・チャートで42位を記録。マーヴィンにとっては初のアルバム・チャートへのランクインとなりました。アルバムからは「Once Upon a Time(ワンス・アポン・ア・タイム)」がヒットしました。

Marvin Gaye & Mary Wells – Once upon a Time – YouTube

しかしモータウンと契約上の問題を抱えていたメアリーとの次の作品が作られることはなく、メアリーは翌1965年にモータウンを去ったため、マーヴィンは次のデュエット相手を探すことになり、これが結果としてTammi Terrell(タミー・テレル)と出会うきっかけとなります。

同時にソロでもコンスタントにシングルをリリースしていたマーヴィンは、当時モータウンの専属ソングライターとして知られていたHolland-Dozier-Holland(ホーランド=ドジャー=ホーランド)が書いた「How Sweet It Is (To Be Loved by You)(君の愛に包まれて)」をヒットさせ、ソロで初めてイギリスのチャートでもランクインしました。この頃より「アメリカン・バンドスタンド」などの人気テレビ番組に出演するようになります。

1965年にはミラクルズが作曲した 「I’ll Be Doggone(アイル・ビー・ドッゴーン)」、「Ain’t That Peculiar(エイント・ザット・ペキュリアー)」の2枚のシングルR&Bチャートで1位を獲得。どちらもミリオンセラーとなりました。またこの年に亡くなったNat King Cole(ナット・キング・コール)のトリビュート・アルバムのためにジャズ由来のバラードを歌っています。

ソロでの活動も活発な中メアリーに続くデュエット相手として1961年にモータウンと契約して人気のあったKim Weston(キム・ウェストン)とのデュエット曲「It Takes Two(イット・テイクス・トゥー)」を1966年にリリースし大ヒットを記録。翌1967年、モータウンはタミー・テレルをデュエット相手として選びます。マーヴィンはタミーと共にレコーディングするまで彼女がどの程度の歌唱力があるのかを把握しておらず、代表作のひとつとも言えるヒット曲「Ain’t No Mountain High Enough(エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ)」は別々にレコーディングされていました。

Marvin Gaye & Tammi Terrell – Ain’t No Mountain High Enough – YouTube

タミーはモータウン入社後The Temptations(テンプテーションズ)のDavid Ruffin(デヴィッド・ラフィン)と交際していましたが、デヴィッドが妻子持ちだと発覚し破局。その後マーヴィンと仕事をすることとなり、シャイなマーヴィンと積極的なタミーのお互いの性格がマッチした結果この曲はビルボードホット100の19位、R&Bチャートの3位を記録。タミーは一躍スターの仲間入りを果たし、その後もデュエット・パートナーは継続されることになります。モータウンがデュエットに選んだのはこういった面も考えてのことだったのでしょうか。

同年はデュエットシングルを連続してリリースし、はじめてのコラボレーション・アルバム「United(ユナイテッド)」をリリース。

1967-1970 タミー・テレルの死

タミーがようやくスターとしての地位を確立しつつあった頃、彼女は幼少期から苦しんできた偏頭痛や頭痛が慢性化していました。痛みを訴えながらも、演奏を継続していましたが、1967年10月14日、バージニア州ハムデン=シドニー大学でマーヴィンと「Your Precious Love(ユア・プレシャス・ラヴ)」のパフォーマンス中、ステージ上でマーヴィンの腕の中に倒れ込みました。彼女の右脳に悪性腫瘍があると診断され、1968年1月13日、フィラデルフィアの大学院病院で脳手術を受けました。

最初の手術から回復したタミーはデトロイトに戻り、「You’re All I Need to Get By(ユアー・オール・アイ・ニード・ゲット・バイ)」を録音しました。この曲とはじめて一緒に1本のマイクでレコーディングされた「Ain’t Nothing Like The Real Thing(エイント・ナッシング・ライク・ザ・リアル・シング)」共にR&Bチャートで1位を獲得しました。

Marvin Gaye & Tammi Terrell – Ain’t Nothing Like The Real Thing – YouTube

タミーの楽観主義にもかかわらず、日に日に彼女の腫瘍は悪化し、医師から演奏禁止を命じられたため、ライブ活動を引退しました。モータウンはタミーの最初で唯一のソロ・アルバム「Irresistible(イレジスティブル)」を発表しましたが、彼女はあまりにも体調を崩していたため、このアルバムのプロモーションを行うことができませんでした。このアルバムはすべての曲が以前に録音され、棚上げされていたものでした。

そんな中マーヴィンはソロでのシングル「I Heard It Through the Grapevine(悲しいうわさ)」がビルボードホット100で初の1位を獲得。1968年12月から1969年1月にかけて7週連続で首位をマークし、400万枚以上を売り上げ、当時のモータウン最大のヒット曲となりました。この曲は1967年に録音されていたもので、ラジオで人気に火がついたためシングル化されていました。しかし、当の本人はこの成功は自分にはふさわしくない、モータウンの操り人形のように感じた、と後にコメントしています。

同年にリリースされたタミーとの3枚目のコラボレーション・アルバム「Easy(イージー)」ではタミーの体調のためにソングライターのValerie Simpson(ヴァレリー・シンプソン)が参加。マーヴィンとヴァレリーは後に今作の制作については異なる話をしており、マーヴィンはタミーは手術のために体調を崩してレコーディングができなくなったため、モータウンヴァレリーにタミーの代役を任せることにした、と彼の著書「What’s Going On and the Last Days of the Motown Sound」に書いています。一方でヴァレリーは、衰弱したタミーが自身のガイド・ヴォーカルの上に録音するには十分な体力があった時にスタジオに連れてこられたと述べ、タミーはこのアルバムで歌っていたと主張しています。レコーディングには車椅子で向かう状態だったと言われています。

1969年後半、タミーはマーヴィンが出演していたアポロシアターでの公演を見に来ており、マーヴィンが見つけるとすぐに彼女のそばに駆け寄り、2人は一緒に 「You’re All I Need to Get By(ユアー・オール・アイ・ニード・ゲット・バイ)」を歌い、観客からスタンディング・オベーションを受けました。タミーにとっては公の場で歌う最後の場面でした。

脳腫瘍の合併症が続いていたため、1970年の初めには、タミーは車椅子に拘束され、失明、脱毛に苦しみ、体重はわずか42キロしかありませんでした。1970年1月21日、最後の手術の後、彼女は昏睡状態に陥り、25歳の誕生日を1か月後に控えた3月16日に亡くなりました。タミーの葬儀はフィラデルフィアのJanes Methodist教会で行われ、葬儀には「You’re All I Need to Get By」が流れる中、マーヴィンが弔辞を述べました。マーヴィンを知るタミーの婚約者Ernest “Ernie” Garrett(アーネスト・ギャレット)医師によると、母親はタミーの最も親しい友人であると感じていたマーヴィンを除いて、モータウンの全員を彼女の葬儀に出席することを禁止したそうです。

1970年、彼らはCash Box誌のアンケートでR&Bデュオの1位に選出。その一方でマーヴィンはタミーの病気に打ちひしがれ、レコード業界に幻滅したと報じられており、アルコールやドラッグの依存していくこととなります。マーヴィンはタミーの死を乗り越えられなかったと複数の伝記作家が書いています。

1970-1977 新たな音楽性の確立

1970年6月1日に、マーヴィンはヒッツヴィルUSAに帰り、バークレーの反戦集会で警察の残虐行為を目撃したFour Tops(フォー・トップス)のメンバー、Renaldo Benson(レナルド・ベンソン)のアイデアに触発された新曲「What’s Going On(ホワッツ・ゴーイン・オン)」を録音しました。後にマーヴィンは、この曲の制作にあたって自分の周りの社会情勢とベトナム戦争に出征していた弟からの手紙から強い影響を受けたと語っています。

曲を聞いたモータウンの社長ベリーは、この曲がラジオには「政治的すぎる」と判断してリリースを中止しました。彼は歌詞に反対意見のファンを失うことを恐れていたのです。しかしマーヴィンは楽曲をリリースしないというストライキを行いましたが、最終的には当時モータウンの営業部長だったBarney Ales(バーニー・エールズ)を通じてリリースし、全国のラジオに送り込みました。

翌1971年にリリースされたこの曲は1ヶ月も経たない内にR&Bチャートで首位を獲得し、5週連続で首位をキープしました。また、キャッシュボックスのポップ・チャートで1週間トップに立ち、ホット100でも2位を記録。200万枚以上を売り上げ、当時のモータウン史上歴代売上の1位、2位を独占しました。

Marvin Gaye – What’s Going On (Official Video 2019) – YouTube

マーヴィンはフル・アルバムをレコーディングすることをモータウンに伝え、セルフ・プロデュースに挑みます。当時セルフ・プロデュースは異例であったため、後にこの行為はStevie Wonder(スティーヴィー・ワンダー)にも影響を与えました。アルバムは貧困、警察の横暴、ドラッグ問題、児童遺棄、都市の退廃、秩序不安といったアメリカの社会問題がテーマとなっており、10日間かけてレコーディングが行われました。

このアルバムはマーヴィンにとって初のミリオン・セラー・アルバムとなり、「Mercy Mercy Mercy Me (The Ecology)(マーシー・マーシー・ミー)」と「Inner City Blues(イナー・シティ・ブルース)」という2つのトップ10シングルを生み出しました。

モータウンの最初の自主制作作品の1つであるこのアルバムのテーマと楽曲の流れは、コンセプト・アルバムのフォーマットをR&Bやソウル・ミュージックにまで広げました。このアルバムでマーヴィンは1972年の授賞式で2つのグラミー賞にノミネートされ、いくつかのNAACPイメージ賞にもノミネートされました。

1971年、マーヴィンはモータウンと100万ドル相当の新たな契約を結び、当時の黒人レコーディング・アーティストとしては最大な契約となりました。翌1972年には映画「野獣戦争」のサウンドトラック・アルバムとして「Trouble Man(トラブル・マン)」をリリース。この制作のために活動の拠点をロサンゼルスへ移し、インストゥルメンタル中心の楽曲制作が行われました。

1973年8月、マーヴィンは新たな代表作のひとつとなるアルバム「Let’s Get It On(レッツ・ゲット・イット・オン)」をリリース。この作品は60年代に活躍し、アルコール依存症のリハビリ施設を出たばかりのEd Townsend(エド・タウンゼンド)がマーヴィンの元を訪ね、意気投合したことによって制作されたアルバムです。

リードシングルとなった同名曲はビルボードホット100で2度目の1位を獲得。アルバムはロングヒットとなり、2年間チャートに留まり、400万枚以上を売り上げました。このアルバムは後に「他に類を見ないほどの官能性と肉欲的なエネルギーを持ったレコード」と称賛されました。

Marvin Gaye – Let’s Get It On – YouTube

この時期より最後となるデュエット・プロジェクトでDiana Ross(ダイアナ・ロス)とのコラボレーション・アルバムの制作が行われ、同年「Diana & Marvin(ダイアナ&マーヴィン)」がリリースされます。楽曲のほとんどは夫婦デュオとして知られたAshford & Simpson(アシュフォード&シンプソン)が2人のために書いたもので、芸術的なスタイルが対照的であったにもかかわらず国際的な成功を収めました。

マーヴィンはファンやモータウンの要望に応え、1974年1月4日にオークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアムで4年ぶりのツアーを開始しました。一時期、彼は公演で一晩10万ドルを稼ぎました。マーヴィンは1974年から1975年にかけてツアーを行われた後、モータウンとの新たな契約を行ったことで、自分のレコーディング・スタジオを持つことができました。

次のスタジオ・アルバム「I Want You(アイ・ウォント・ユー)」は1976年3月にリリースされ、リードシングルとなった同名曲はR&Bチャートで1位を獲得。アルバムは100万枚以上のセールスを記録しました。

同年春頃よりベルギーを皮切りに10年ぶりのヨーロッパツアーに乗り出しました。ロンドン・パラディウムではレコーディングセッションも行われ、翌1977年、ライブ・アルバム「Live at the London Palladium(ライブ・アット・ザ・ロンドン・パラディウム)」をリリース。新たに録音された「Got to Give It Up(黒い夜)」はシングルとしてリリースされ、ビルボードホット100で3度目の1位を獲得し、200万枚以上のセールスを記録しました。

Marvin Gaye – Got To Give It Up – YouTube

1978-1981 モータウンとの最後

1978-1981 モータウンとの最後

1978年、15枚目のスタジオ・アルバム「Here, My Dear(ヒア、マイ・ディア)」をリリース。アンナ・ゴーディとの結婚生活が破綻し始めた1973年に別居。アンナは1975年11月に離婚を申請し、夫婦は1977年に正式に離婚しました。今作が離婚に主に焦点を当てているのは、マーヴィンに対して100万ドルという破格の慰謝料を請求し、次のアルバムで考えられる約60万ドルの収益金を支払うという条件で成立したため。しかしビルボード200ではそれまで3作連続でトップ10入りを果たしていたものの26位と、チャートでの成績は芳しくありませんでした。

アルバムがリリースされた時点では既に女優のJanis Hunter(ジャニス・ハンター)と結婚していましたが、1981年に離婚しています。この原因のひとつとなったのが、国税庁との間にいくつかの金銭的な問題が発し彼のコカイン中毒が重症化したこと。これらをきっかけに彼はマウイ島に移り住み、そこでディスコの影響を受けた「Love Man(ラヴ・マン)」というタイトルのアルバムを1980年2月にリリースするつもりでレコーディングに奮闘しましたが、結局はこれを棚上げしてしまいました。

同年、マーヴィンは4年ぶりのヨーロッパツアーを行いました。ツアーが終わる頃までに450万ドルにも上る税金の返済が行われなかったため、捕まることを恐れて彼はロンドンに引っ越していました。

その後、「Love Man」をオリジナルのディスコ・コンセプトから、宗教と黙示録の章に出てくる可能性のある終末の時をテーマにした社会的意識の高いアルバムに作り直し、タイトルも「In Our Lifetime(イン・アワー・ライフタイム)」に変更しました。

その年の秋、マーヴィンのツアー中のミュージシャンの一人であるFrank Blair(フランク・ブレア)がアルバムのマスター・テープを何者かに盗まれ、そのマスター・テープがモータウンのハリウッド本社に持ち込まれました。 モータウンはこのアルバムをリミックスし、1981年1月にリリースしました。

リリースを知ったマーヴィンは、モータウンが彼の同意なしにアルバムを編集・リミックスし、「Far Cry」の未完成のプロダクションのリリースを許し、アルバム・アート及びタイトルを改変したことを非難しました。マーヴィンはその後、モータウンのために録音しないことを誓います。

アルバムリリースの翌月、マーヴィンは音楽プロモーターのFreddy Cousaert(フレディ・クーザート)の助言を受け、ベルギーのオステンドにある彼のアパートに引っ越しました。そこにいる間、マーヴィンは薬物の多用を避け、運動や地元の教会に通うようになり、自信を取り戻しました。

数ヶ月間の回復の後、マーヴィンはステージでのカムバックを模索し、1981年6月から7月にかけてイギリスとオステンドでの短期のツアー「Heavy Love Affair」を開始しました。その頃マーヴィンが音楽的なカムバックとモータウンからの脱退を計画しているという噂が広まっており、CBS Urbanの社長Larkin Arnold(ラーキン・アーノルド)はゲイにCBSレコードと契約するように説得することができました。1982年3月、モータウンとCBSはゲイのモータウンからの脱退を交渉しました。ゲイの国税庁との和解に悪影響を及ぼす可能性があるため、契約の詳細は明らかにされませんでした。

1982-1984 ラスト・アルバムと突然の死

1982-1984 ラスト・アルバムと突然の死

CBSコロムビアの子会社に配属されたマーヴィンは、アルバム「Midnight Love(ミッドナイト・ラヴ)」に取り組みました。1982年9月にリリースされたファースト・シングル「Sexual Healing(セクシャル・ヒーリング)」は、キャリア最大のヒット曲となり、ホット・ブラック・シングルス・チャート(現在のHot R&B/Hip-Hop Songs)では10週連続1位を記録。ビルボードの統計によると1980年代最大のR&Bヒットとなりました。この成功はその後、1983年1月のビルボード・ホット100チャートで3位を記録し、世界的な成功を収め、ニュージーランドとカナダでは1位を獲得し、イギリスのOCCシングルチャート、オーストラリア、ベルギーでもトップ10入りを果たしました。後にアメリカだけで200万枚以上を売り上げました。

Marvin Gaye – Sexual Healing – YouTube

「Sexual Healing」の成功は初のグラミー賞獲得をもたらします。1983年2月に行われた第25回グラミー賞で3つの部門にノミネートされ、最優秀男性リズム・アンド・ブルース・ヴォーカル・パフォーマンス賞、最優秀リズム・アンド・ブルース・インストゥルメンタル・パフォーマンス賞の2部門を受賞しました。アルバム「Midnight Love」はシングル発売から1ヶ月も経たないうちに店頭に並び、ビルボード200のトップ10入りを果たし、マーヴィンの8枚目のアルバムとしてTop Black Albumsチャートで1位を獲得し、最終的には全世界で600万枚以上、アメリカだけで300万枚を売り上げました。

1983年2月13日、マーヴィンはカリフォルニア州イングルウッドのフォーラムで行われたNBAオールスターゲームで国歌斉唱を披露。5月にはモータウン・レーベルの設立25周年を記念してNBCで放映されたTVスペシャル「Motown 25: Yesterday, Today, Forever」、そしてテレビ番組「ソウル・トレイン」に出演。この出演が最後のテレビ出演となりました。

またこの間、「Sexual Healing Tour」と題したコンサート・ツアーを行っており、ツアー中はコカインによる被害妄想と体調不良に悩まされたマーヴィンは健康的な暮らしを取り戻すため、コンサート終了後、ロサンゼルスの実家に引っ越しました。

しかし父親との関係は改善されていたわけではなく、喧嘩ばかりを繰り返していました。そのせいか健康的とは真逆な暮らしとなり、コカインの量も増えていき、散々な日々を過ごしていました。

そして1984年4月1日午後、両親の喧嘩に介入したマーヴィンは父親との殴り合いに発展します。その後自分の部屋に戻ったマーヴィンの部屋に向かった父親は午後12時38分、マーヴィンに向かって2発撃ち、1発は胸から心臓を貫き、2発目は肩を撃ちました。すぐにカリフォルニア・ホスピタル・メディカル・センターに搬送されましたが午後1時1分に死亡を宣告されました。45歳の誕生日の前日の出来事でした。

葬儀後、遺体はハリウッド・ヒルズのフォレスト・ローン・メモリアル・パークで火葬され、遺灰は太平洋に撒かれました。父親は当初、第一級殺人罪で起訴されましたが、脳腫瘍の診断を受けて故殺罪に減刑されました。 彼には執行猶予6年の刑と執行猶予が与えられ、1998年に老人ホームで亡くなりました。

マーヴィン・ゲイの功績

マーヴィン・ゲイは数々の功績がたたえられ1987年にロックンロールの殿堂入りを果たし、翌1988年にNAACPの殿堂入りを果たしました。1990年にはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームのスターを授与。 1996年にはグラミー賞の生涯功労賞を死後に受賞と20世紀の音楽史に欠かせないアーティストの一人です。

やはり1960年代から1970年代にかけてのモータウンでのリリースは、このレーベルの特徴的なサウンドを形作りました。「Prince of Motown(モータウンのプリンス)」、または「Prince of Soul(ソウルのプリンス)」と呼ばれるようになったのもこの時期。特にバックミュージシャンとしての活動がその後のアルバム制作に大きな影響を与え、それらを実行に移し音源化したことが、後の多くのミュージシャンに影響を与えています。

マーヴィン・ゲイのアルバムとしては彼がなくなった後、4枚のスタジオ・アルバムがリリースされており、そのうち1985年にリリースされた2枚「Dream of a Lifetime(永遠への旅立ち)」、「Romantically Yours(ロマンティカリー・ユアーズ)」はCBSコロムビアとの契約の問題で制作されています。これは彼の借金を回収するために3枚分のアルバムリリースを契約していたため。モータウン時代のセッションでレコーディングされていた楽曲を中心に作られました。

その後1997年にはモータウンから「Vulnerable(ヴァルナラブル)」、2019年には生誕80周年を記念しモータウン、ユニバーサルミュージックエンタープライズ、ユニバーサルミュージックグループを通じて「You’re the Man(ユア・ザ・マン)」をリリースしています。これは「What’s Going On」の次にリリースするつもりで制作されるも棚上げされていた作品です。

マーヴィン・ゲイを語る上で欠かせない歌唱力

マーヴィン・ゲイは4オクターブの声域を持っていたと言われています。The Marquees(マーキーズ)、Harvey and the New Moonglows(ハーヴェイ・アンド・ザ・ムーングロウズ)のメンバーとしての初期のレコーディング、モータウンとの最初の数回のレコーディングで、マーヴィンは主にバリトンとテナーの音域でレコーディングをしています。

彼はゴスペルにインスパイアされた初期のヒット曲「Stubborn Kind of Fellow(スタボン・カインド・オブ・フェロウ)」などではラスプにトーンを変えました。初期のモータウンアーティストでソングライターのEddie Holland (エディ・ホランド)は「彼は、彼の自然な声とはかけ離れた曲を歌い、その曲を売るために必要なことは何でもするということを知る唯一のシンガーでした。」と後に語っています。

またエディは「今までに聞きたかった中で最も甘くて美しい声のひとつだった」 と述べ、バラードやジャズが「彼の基本的なソウル」であるとしながらも、彼は「ラフハウス、ロックンロール、ブルース、R&B、どんな曲でも自分のものにする能力を持っていた」と述べ、「マーヴィンはこれまで一緒に仕事をしてきた中で最も多才なボーカリストだった」と語っています。

1960年代後半にはよりシャープでラズピーな声を使うように勧められたことから、より高い音域が出せるようになったと述べており、このことからボーカルアレンジの幅が広がり、「What’s Going On」のレコーディングにも反映されています。

最後に

マーヴィン・ゲイをリアルタイムで聴いてきた世代にとっては何の不思議もない話かもしれませんが、やはりピックアップされがちな60年~70年代のヒット曲や「What’s Going On」があまりにも伝説的なアルバムになっているためコロムビア時代のアルバム「Midnight Love」ここまで大きなセールスだったことは若い世代には知られていない事実かもしれません。

つまり、大きく分けると「Ain’t No Mountain High Enough」や「I Heard It Through the Grapevine」などをヒットさせた時代、「What’s Going On」以降の時代、80年代「Midnight Love」までの時代とヒット曲を出し続けてたわけです。それだけに歴史を紐解いてみると突然すぎる死はあまりにも衝撃的です。

2021年、ワーナー・ブラザースが伝記映画の製作権を獲得したと報じられており、今後マーヴィン・ゲイの伝記映画も見られるかもしれません。

是非この機会に初期の名曲・ヒット曲を知らない世代の方にもMarvin Gaye(マーヴィン・ゲイ)の魅力が少しでも伝わればと思います。

以上、Marvin Gaye(マーヴィン・ゲイ)についてご紹介しました。

WRITER

ISAO

1920年代以来、ハリウッド映画、ジャズ、ブロードウェイと「Tin Pan Alley」音楽の時代でしたが、ラジオ放送開始と共にポピュラー音楽の時代が到来、後にはメンフィスに生まれたロックンロールを介して、米国は長らく世界のサブカルチャー(大衆娯楽文化)を支配して来ました。…が、ビートルズを機に「British Invasion(英国の侵略)」が始まり、世界に革命的な衝撃を与えました。このような大きな節目、歴史的転換期に遭遇したISAO(洋楽まっぷ専属ライター)が思いついたことを、気の向いたままに、深く掘り下げていきます。

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