Simon & Garfunkelの現在と50年以上に渡る歴史を7つの時代に凝縮して解説

Simon & Garfunkel(サイモン&ガーファンクル)は、1964年のデビューから「明日に架ける橋」「コンドルは飛んで行く」「冬の散歩道」など多くのヒット曲を世に送り出したPaul Simon(ポール・サイモン)Art Garfunkel(アート・ガーファンクル)によるフォーク・デュオです。

今回はSimon & Garfunkel(サイモン&ガーファンクル)それぞれの現在の活動と、50年以上に渡る歴史を7つの時代に凝縮して解説していこうと思います。

Simon & Garfunkel(サイモン&ガーファンクル)のプロフィール

Simon & Garfunkel

Simon & Garfunkel(サイモン&ガーファンクル)はPaul Simon(ポール・サイモン)とArt Garfunkel(アート・ガーファンクル)によるフォーク・デュオ。

15歳のときにデビュー曲「Hey Schoolgirl(ヘイ・スクールガール)」でデビューするといきなりスマッシュヒットを記録。しかしその後は伸び悩み学業に専念することに。

共に大学を卒業した1963年に再びデュオとして活動を開始、Columbia RecordsのスタッフTom Wilson(トム・ウィルソン)の注目を引き、Columbia Recordsと契約。

トム・ウィルソンがプロデュースを行い、1964年にグループ名をSimon & Garfunkel(サイモン&ガーファンクル)と改めて、アルバム「Wednesday Morning, 3 A.M.(水曜の朝、午前3時)」で再デビューしました。

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Simon & Garfunkel(サイモン&ガーファンクル)のキャリア

1953-1956 デュオ結成 トム&ジェリー

デュオ結成 トム&ジェリー

Paul Simon(ポール・サイモン)とArt Garfunkel(アート・ガーファンクル)は、1940年代から1950年代にかけて、ニューヨークのクイーンズにあるキュー・ガーデンズ・ヒルズというユダヤ人が多い地区で、わずか3ブロックという近所で育ちました。キューガーデンズヒルズの公立学校164、パーソンズ中学校、フォレストヒルズ高校と同じ学校に通い、音楽に魅了され、ラジオを聴き、ロックンロール、特にEverly Brothers(エヴァリー・ブラザーズ)の大ファンでした。2人の関係は、1953年に彼らが小学6年生のときのお芝居「Alice in Wonderland(不思議の国のアリス)」に出演したことから始まり、他の友人と共にPeptones(ペプトンズ)というドゥーワップ・グループを結成し、ハーモニーを学びました。学校のダンスでデュオとして出演するようになりました。

エヴァリー・ブラザーズの「Hey Doll Baby」を真似て「Hey School girl(ヘイ・スクールガール)」を書き、マンハッタンのSanders Recording Studioにて25ドル払ってレコーディングしました。レコーディング中にたまたま、プロモーターのSid Prosen(シド・プロセン)の耳に入り、プロモーターは両親と話して、彼の独立レーベルであるBig Recordsと契約しました。彼らは15歳でした。

Big Recordsの下で、ポール・サイモンはJerry Landis(ジェリー・ランディス)、アート・ガーファンクルはTom Graph(トム・グラフ)という芸名を考え、Tom & Jerry(トム&ジェリー)と名乗り、最初のシングル「Hey School girl」は1957年にリリースされました。シド・プロセンはDJのAlan Freed(アラン・フリード)に賄賂を渡してこのシングルを彼のラジオ番組でかけさせて、毎晩の定番曲にしました。

「Hey School girl」は全国のAMポップ・ステーションで定期的に流され、10万枚以上のセールスを記録し、ビルボードホット100で49位を記録しました。シド・プロセンはグループを大きく宣伝し、テレビプロデューサーのDick Clark(ディック・クラーク)の音楽番組「アメリカン・バンドスタンド」ではJerry Lee Lewis(ジェリー・リー・ルイス)と並んで人気者になりました。サイモンとガーファンクルはこの曲で約4,000ドルの収入を得ました。しかしその勢いは続かず、その後「Our Song」、「That's My Story」、「Don't Say Goodbye」の3つのシングルをリリースしましたが、どれも成功しませんでした。

1958年にフォレストヒルズ高校を卒業した後、サイモンはニューヨーク市立大学クイーンズ校で英語学を学び、ガーファンクルは建築学を学んだ後、コロンビア大学で美術史に転向しました。Big Recordsにデュオとして在籍していた時、サイモンはソロ・シングル「True or False」を「True Taylor」という名前でリリースしました。これを裏切りとみなしたガーファンクルは動揺し、この事件の感情的な行き違いはその後の2人の関係の中で時折表面化することになります。

サイモンとガーファンクルは夫々ソロ・アーティストとして音楽活動を続けます。ガーファンクルはOctavia Recordsで「Private World」を作曲してレコーディングしたり、Artie Garr(アーティ・ガー)の名でWarwick Recordsにて「Beat Love」をレコーディングしました。サイモンは他のアーティストのためにデモを書いて演奏し、Carole King(キャロル・キング)やGerry Goffin(ゲリー・ゴフィン)としばらく仕事をしました。

1963-1964 デュオ再結成とソロ活動

デュオ再結成とソロ活動

1963年の卒業後、サイモンとガーファンクルはデュオとして再結成し、フォーク・ミュージックに共通の関心を持って演奏しました。

サイモンはブルックリンの法科大学院の定時制コースに入学しました。1963年後半にはKane & Garr(ケイン&ガー)と名乗り、グリニッジのクラブ「Gerde's Folk City」で月曜の夜のオープン・マイク・パフォーマンスに立ちました。「He Was My Brother」、「The Sound of Silence」を披露し、コロンビアのプロデューサー、Tom Wilson(トム・ウィルソン)の目に留まりました。彼はアフリカ系のジャズミュージシャンで、Bob Dylan(ボブ・ディラン)のフォークからロックへの転身の立役者でした。2人はスタジオでオーディションを受け、「The Sound of Silence(ザ・サウンド・オブ・サイレンス)」を演奏し、トム・ウィルソンの強い推薦でコロンビアは彼らと契約しました。

サイモン&ガーファンクルのデビューアルバム「Wednesday Morning, 3 A.M.(水曜の朝、午前3時)」は、トム・ウィルソンに依るプロデュースで、1964年10月にリリースされました。サイモンが作曲した5曲、伝統的なフォークソング3曲、フォークの影響を受けたシンガーソングライターの曲4曲が収録されています。コロンビアはFolk Cityでプロモーションのためのショーケースを設けましたが、残念ながら、これも含め、他の予定されていた公演も注目されませんでした。

「Wednesday Morning, 3 A.M.(水曜の朝、午前3時)」はリリース時にわずか3,000枚しか売れませんでした。

サイモンはイギリスへ渡り、小さなフォーク・クラブをツアーし、多くのアーティストと親交を深めました。小さな音楽出版社であるLorna Musicが、サイモンが2年前に録音したシングル「Carlos Dominguez」がVal Doonican(ヴァル・ドゥーニカン)のカバーで良く売れていました。サイモンはお礼にLorna Musicを訪れ、それがきっかけで出版と録音の契約が結ばれました。彼はオリオール・レコードと契約し、シングル「He Was My Brother」をリリースしました。1964年の夏、サイモンはガーファンクルを誘いました。

シーズンの終わり近く、ガーファンクルは授業のためにコロンビア大学に復帰しました。サイモンもまたアメリカに戻り、両親の強い要望もありブルックリン・ロースクールで勉強を再開しました。

彼は1965年1月にイギリスに戻り、音楽が天職であることを確信しました。Lorna Musicで完成したテープは、演奏してくれることを期待してBBCに送られていました。デモはモーニング・ショー「Five to Ten」で放送され、瞬く間に成功を収めました。オリオール・レコードはその時点でCBSに合併しており、サイモンの新しいアルバムをレコーディングすることを望んでいました。

サイモンは1965年6月に初のソロ・アルバム「The Paul Simon Songbook(ポール・サイモン・ソングブック)」をレコーディングし、後のサイモン&ガーファンクルの代表曲である「I Am a Rock」や「April Come She Will」などを収録しました。CBSはこのアルバムの制作のためにトム・ウィルソンを送り込み、アルバムは8月にリリースされました。売り上げは芳しくありませんでしたが、サイモンはイギリスでの将来に満足していました。ガーファンクルは1965年に卒業し、数学の修士号を取得するためにコロンビア大学に戻りました。

1965-1966 躍進と成功

躍進と成功

アメリカではボストンのWBZの深夜DJ、Dick Summer(ディック・サマー)が「The Sound of Silence」を流して大学生に大いに人気を博し、翌日にはフロリダ州ココア・ビーチまで伝搬しました。この新しい現象を耳にしたトム・ウィルソンは、彼とBob Dylan(ボブ・ディラン)が「Like a Rolling Stone」で作り上げたフォーク・ロック・ハイブリッドの成功からインスピレーションを得て、スタジオ・ミュージシャンを使ってこの曲をロック・リミックスに仕上げました。

「The Sound of Silence」のリミックスは1965年9月に発表され、ビルボードホット100にランクインしました。この計画を知らされていなかったサイモンは最初にこの曲を聞いて非常に驚きます。

Simon & Garfunkel - The Sound of Silence (from The Concert in Central Park)

1966年1月までに「The Sound of Silence」は100万枚以上を売り上げ、ビルボードホット100のトップに立ちました。サイモンはイギリスを離れ、ニューヨークでガーファンクルと再会しました。

CBSはこのヒットの波に乗るために「The Sound of Silence」と名付けたニュー・アルバム作成を要請しました。「Paul Simon Songbook」収録曲に新曲の4曲を加えたアルバム「Sounds of Silence」がわずか3週間でレコーディングされ、1966年1月に2枚目のスタジオ・アルバムとしてリリース。ビルボードのアルバム・チャートで21位を記録しました。

その1週間後にはアルバムに収録しなかったシングル「Homeward Bound(早く家へ帰りたい)」をリリースし、ビルボードホット100で5位を記録。イギリスでは初めてチャートインを果たし9位にランクインしました。

続いて「I Am a Rock(アイ・アム・ア・ロック)」が3位にランクインしました。デュオはこの録音を全米ツアーで再現し、CBSは30位にチャートインした「Wednesday Morning, 3 A.M.」を再リリースしてプロモーションを続けました。成功にもかかわらず、このデュオは批判的な嘲笑を受け、多くの人が彼らをフォーク・ミュージックのまがい物とみなしていました。

彼らはアルバム「The Sound of Silence」を突然の成功を利用した「やっつけ仕事」と考えていたため、サイモンとガーファンクルはその次の作品の制作にもっと多くの時間を費やしました。これはサイモンがレコーディングの全面的なコントロールを主張した初めてのことでした。 作業は9ヶ月にも及び、10月に「Parsley, Sage, Rosemary and Thyme(パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム)」がリリースされました。

デュオは大学のサーキット・ツアーを再開、次第に「疎外された」、「神秘的な」、「詩的な」と評されるイメージを醸成していきました。マネージャーのMort Lewis(モート・ルイス)は、テレビ出演を控えて、この世間の認識の維持に厳格でした。

当時26歳だったサイモンは、芸術的な誠実さを保ちながらロックンロールの上層部分に「到達した」と感じていました。 彼の伝記作家Marc Eliot(マーク・エリオット)によると、これが彼らを「Bobby Darin(ボビー・ダリン)よりもBob Dylan(ボブ・ディラン)に精神的に近い」ものにしたと云います。この頃、彼らはWilliam Morris(ウィリアム・モリス)をエージェントに選んでいます。

「Parsley, Sage, Rosemary and Thyme」のセッション中、サイモンとガーファンクルは「A Hazy Shade of Winter(冬の散歩道)」をレコーディング。この曲はシングルとしてリリースされ、ビルボードホット100で13位を記録しました。 同様に、彼らは1967年初頭にシングルとしてリリースされた 「At the Zoo(動物園にて)」を再びレコーディングし、チャートで16位を記録しました。

サイモンはこの頃から「もうシングルには興味がない」と話すようになり、彼は新曲を書かなくなりました。当時のアーティストは毎年2~3枚のアルバムをリリースすることが期待されており、生産性の低さはコロンビアの重役たちを悩ませていました。

サイモンの怠惰さが懸念される中、コロンビア・レコードの会長Clive Davis(クライヴ・デイヴィス)は新進気鋭のプロデューサーJohn Simon(ジョン・サイモン)を起用してレコーディングを始動させました。この時期、テレビ出演は稀でしたが、1966年には「エド・サリヴァン・ショー」、「マイク・ダグラス・ショー」、「アンディ・ウィリアムス・ショー」などのネットワーク放送に、1967年には「スマザーズブラザーズのコメディアワー」に出演しました。

一方、当時アメリカの映画「The Graduate(卒業)」を撮影していたMike Nichols(マイク・ニコルズ)監督は、サイモン&ガーファンクルの曲を幅広く聴いていました。

彼はクライヴ・デイヴィスに会い、サイモン&ガーファンクルの音楽を自分の映画に使用する許可を求めました。クライヴ・デイヴィスはそれが完璧にフィットすると考え、サウンドトラックアルバムの構想を2人に話しました。

サイモンは慎重でしたが、マイク・ニコルズに会い、彼のウィットと脚本に感銘を受けたサイモンは、この映画のために新しい曲を書くことに同意しました。そして、サイモンは3曲を提案しましたがマイク・ニコルズは最初の2曲を気に入らず、最後に、未完成ながら提案した「Mrs. Robinson(ミセス・ロビンソン)」に彼は大いに感銘を受けました。

1967-1968 ハーモニーの終焉とソロ活動の始まり

ハーモニーの終焉とソロ活動の始まり

彼らの4枚目のスタジオ・アルバム「Bookends」は1966年末から1968年初頭にかけて断続的にレコーディングされました。ビィオラ、管楽器、パーカッション・プレイヤーを導入し、レコーディングは簡潔で完璧主義を反映されました。

例えば、「Punky's Dilemma」のレコーディングには50時間以上を費やし、ヴォーカル・パートを一音一音、納得がいくまで録り直したと言われています。ガーファンクルの歌と声が主役の曲もあり、デュオとして知られていたハーモニーは次第に消えて行きました。サイモンにとって、「Bookends」はコラボレーションの終焉を象徴、ソロ活動への意思を示す指標になりました。

「Bookends」が発売されたのは1968年4月、偶然にもキング牧師が暗殺される24時間前の事でした。このアルバムは1968年4月27日付のビルボード・アルバム・チャートで初登場1位を獲得し、その後7週連続でその地位を維持しました。リリースの数週間前に大量の注文を受けたため、コロンビアは出荷の前に賞の認定を申請することができました。このアルバムは10週間前に発売された「The Graduate(卒業)」のサウンドトラックが注目を集めたことも手伝い、500万枚以上のセールスを記録しました。

Simon & Garfunkel - Mrs. Robinson (from The Concert in Central Park)

1969年のグラミー賞では、リードシングルの「Mrs. Robinson」がロックンロールとして初めて最優秀レコード賞を受賞し、最優秀ポップ・パフォーマンス賞デュオ/グループも受賞しました。

1969-1970 個々の活動と最後のアルバム

個々の活動と最後のアルバム

「Bookends」は「The Graduate(卒業)」のサウンドトラックと並んで、サイモン&ガーファンクルを世界最高のロックデュオに押し上げました。

サイモンはプロデューサーから映画用楽曲の曲作りやライセンス契約を受けるように打診されましたが、映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」を撮影する準備をしていた監督のFranco Zeffirelli(フランコ・ゼフィレッリ)や「真夜中のカーボーイ」の監督John Schlesinger(ジョン・シュレシンジャー)の申し出を断りました。ハリウッドからの提案に加えて、サイモンは友人のDustin Hoffman(ダスティン・ホフマン)が主演を務めたブロードウェイのショー「ジミー・シャイン」のプロデューサーからの依頼も断りました。

ガーファンクルは俳優となり、Joseph Heller(ジョセフ・ヘラー)原作でMike Nichols(マイク・ニコルズ)が監督を務めた映画「キャッチ22」でネイトリー大尉を演じました。サイモンはダンバー役を演じることになっていましたが、脚本家のBuck Henry(バック・ヘンリー)はこの映画がすでに多くの登場人物で混乱していると感じ、撮影途中で書き直し、サイモンの役はなくなりました。撮影は予想以上に長期化し、二人の関係にさらなる危機をもたらすことになりました。

1970年1月にリリースされたサイモン&ガーファンクル最後のアルバム「Bridge over Troubled Water(明日に架ける橋)」は11カ国以上でチャートインし、内10カ国でチャートのトップに立ちました。1970年、1971年、1972年に最も売れたアルバムとなり、当時のCBSレコードの最も売れたアルバムでもありました。このアルバムは10週に渡って首位を獲得しています。

英国では1970年から1975年まで、アルバムは35週にわたってチャートのトップに立ち、トップ100に285週もランクインしました。全世界で2500万枚以上のセールスを記録しています。同名リードシングルの 「Bridge over Troubled Water(明日に架ける橋)」は5カ国で1位を獲得し、デュオの最大のヒット曲となりました。

Simon & Garfunkel - Bridge over Troubled Water (from The Concert in Central Park)

アルバムリリース後、イギリスで短期間のツアーが行われ、サイモン&ガーファンクルとしての最後のコンサートはフォレスト・ヒルズ・スタジアムで行われました。1971年の第13回グラミー賞においてアルバムが最優秀アルバム賞、シングルが、最優秀レコード賞、最優秀楽曲賞、最優秀コンテンポラリー楽曲賞、最優秀ヴォーカル入りインストゥルメンタル編曲賞、最優秀アルバム技術賞(クラシック以外)を受賞しました。

1971-1990 分裂と再結成

「Bridge over Troubled Water」のレコーディングは難航し、サイモンとガーファンクルの関係はさらに悪化していました。「その時点で、私はただ別れたかった」とサイモンは後に語っています。妻のペギーに促されて、サイモンはクライヴ・デイヴィスに電話をしてデュオの解散を確認しました。それからの数年間、彼らは年に2~3回しか話しませんでした。

1970年代、デュオは何度か再結成し、1975年にはJohn Lennon(ジョン・レノン)とHarry Nilsson(ハリー・ニルソン)のレコーディング・セッションを訪れたことを切掛けに和解しました。それからの1年間、再結成を成功させようと試みましたが、彼らのコラボレーションから生まれたのは 「My Little Town(マイ・リトル・タウン)」1曲だけで、この曲は全米ビルボードホット100の9位、イージーリスニング・チャートで1位を記録しました。1978年にガーファンクルがニューヨークに戻ってくると、以前の緊張関係は解消され、2人はより頻繁に交流を持つようになり、カーネギーホールで開催された聴覚障害者のためのコンサートに参加しました。

1980年になっても2人のソロ活動は上手く行っていませんでした。ニューヨークの経済的衰退を緩和するために、コンサート・プロモーターのRon Delsener(ロン・デルセナー)はマンハッタンにあるセントラル・パークでの無料コンサートを提案し、1981年9月19日に開催されたこのコンサートは50万人以上という当時としては過去最大の動員数を記録しました。

ワーナー・レコードはこのコンサートのライブ・アルバム「The Concert in Central Park」をリリースし、全米でダブル・プラチナを獲得しました。2人は何度か「心を通わせた話し合い」を行い、意見の相違を解決しようとしました。2人は1982年5月からワールド・ツアーを行いましたが、2人の関係は対立、お互いに口を利かないようになっていきました。

ワーナー・レコードはデュオにツアーの延長と新しいスタジオ・アルバムのリリースを求めました。サイモンは新しい素材を用意しており、サイモンによると「ガーファンクルはそれを自然なデュオ・アルバムにすることができると説得力のある主張をした」が、デュオはまたもや口論になり、ガーファンクルはスタジオで曲を覚えることを拒否し、サイモンの要求にもかかわらず長年の大麻とタバコの習慣を手放そうとしませんでした。

代わりに、その素材はサイモンの1983年のアルバム「Hearts and Bones(ハーツ・アンド・ボーンズ)」に結実することになります。サイモンの1986年のアルバム「Graceland(グレイスランド)」のレコーディングが長引いたことで、ガーファンクルがエンジニアのRoy Halee(ロイ・ハリー)とクリスマス・アルバム「The Animals' Christmas(アニマルズ・クリスマス)」の制作に入り、2人は一緒に仕事をすることができなくなったため、もう1つの亀裂が生じることになりました。

1990-2018 受賞とファイナル・ツアー

受賞とファイナル・ツアー

1990年、サイモンとガーファンクルはロックの殿堂入りを果たしました。ガーファンクルはサイモンに感謝の意を表し、「これらの曲作りに参加でき、私の人生を最も豊かにしてくれた人」と呼びましたが、サイモンはこれに応えて「ガーファンクルと私はほとんど何についても同意していない。しかし、私が彼の人生をかなり豊かにしたのは事実だ」と述べました。3曲を演奏した後、2人は何も言わずに去っていきました。1991年8月、サイモンはセントラル・パークで自身のコンサートを行い、数ヶ月後にはライブアルバム「Paul Simon's Concert in the Park」がリリースされました。サイモンはガーファンクルからのセントラル・パークでの共演の申し出を断っていました。

1993年までには2人の関係は緩和し、サイモンはガーファンクルを海外ツアーに招待しました。ニューヨークのパラマウント・シアターでの21日間の公演は完売、カリフォルニア州ブリッジ・ベネフィット・フェスティバルへの出演を経て、2人はアジア・ツアーを行いました。 その後の10年間、2人は再び険悪な関係になりました。 サイモンは2001年にソロ・アーティストとしてロックンロールの殿堂入りを果たした際、ガーファンクルに感謝の意を表しています。「私たちの友情の終わりを後悔している。私たちが死ぬ前のいつか、私たちがお互いに和解できる日が来ることを願っている」と、間を置いた後に「急ぐことはない」と付け加えました。

2003年、サイモンとガーファンクルは第45回グラミー賞で生涯功労賞を受賞し、プロモーターに説得されて「The Sound of Silence」を演奏してオープニングを飾りました。この演奏は両者にとって満足のいくもので、本格的な再結成ツアーに繋がりました。「The Old Friends」ツアーは2003年10月から40日間、全米でソールド・アウト・ツアーとなり、推定1億2,300万ドルの収益を上げました。

2004年6月には、20都市で構成される2回目の全米ツアー、続いてヨーロッパでは12都市を廻った後、イタリアフォリ・インペリアリ通りでの無料コンサートには60万人のファンが集まり、9ヶ月間のツアーを締めくくりました。

2010年のニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテッジ・フェスティバルの冒頭は、発声に問題を抱えていたガーファンクルにとっては問題でした。「私はひどくて、狂ったように緊張していました。ポール・サイモンと観客の愛情に頼っていたのだ」と数年後、彼はRolling Stone誌に語っています。ガーファンクルは声帯麻痺と診断され、残りのツアー日程はキャンセルされました。サイモンは公にガーファンクルの健康を願い続け、彼の「天使のような」声を賞賛しました。ガーファンクルはその後の4年間で声の強さを取り戻しました。

2014年、ガーファンクルはRolling Stone誌に対し、サイモンと再びツアーを行うと信じていると語っていましたが、同時に次のようにも言っています。「世界中の聴衆がサイモンとガーファンクルを好きなのは知っている。僕は彼らと一緒だ。でも、ポール・サイモンが彼らと一緒にいるとは思わない。」 2016年の再結成について聞かれたサイモンはこう語りました。「かなり正直に言うと、僕らは仲良くしていない。だから楽しいとは思えない。楽しければOK、たまには出掛けて昔の曲をハーモニーで歌うこともあるよ。それはいいね。でも、楽しくなくて、緊張感のある状況になると、まあ、その時は自分のやってみたい音楽の分野が他にもたくさんあるからね。だから、それはもう二度とない。それだけのこと。」 2018年2月、サイモンはツアーからの引退を発表しました。

音楽スタイルとレガシー

彼らのキャリアの中で、サイモン&ガーファンクルの音楽はフォーク・ロックを基本に、ラテンやゴスペルなど、当時の実験的な要素を取り入れたものへと徐々に移行して行きました。Rolling Stone誌によると、60年代の終わり頃、彼らの音楽は孤独で疎外された若者たちの間に衝撃を与えました。

サイモン&ガーファンクルは成功の絶頂期にいくつかの批評がありました。1968年、Rolling Stone誌の評論家Arthur Schmidt(アーサー・シュミット)は彼らの音楽を「疑わしい…感覚を醸し出していて、巧妙で、過度ではない」と評しました。New York Timesの評論家Robert Shelton(ロバート・シェルタン)は、このデュオは「臆病で、嘘っぽい、ある種ミッキー・マウスのような」アプローチをしていたと述べているが、All MusicのRichie Unterberger(リッチー・ウンターバーガー)によると、彼らのクリーンなサウンドと抑制されたリリシズムは「サイケデリック時代におけるカッコよさを犠牲にし、このデュオはフォーク・ロックの領域のより洗練された側に立ち、彼らの大学生活の無菌状態を批判されることもあった。」彼は、サイモンの後のソロ作品をサイモン&ガーファンクルより優れていると考える批評家もいると指摘しています。

Pitchfork(ピッチフォーク)によると、「直感的なハーモニーとポール・サイモンの明瞭なソングライティングによって際立っている」と高く評価されたフォークシンガーでしたが、彼らはグリニッジ・ビレッジのフォーク・ミュージック・リバイバリストたちよりも保守的でした。40年後、彼らは60年代のカウンター・カルチャーのより奇妙で、より厳しく、より複雑なフォーク・ミュージックへの理想的な入り口となった」が、その後のアルバムはより野心的な制作技術を探求し、ゴスペル、ロック、R&B、クラシックの要素を取り入れ、貪欲に音楽的語彙を広げて行きました。

受賞・記録

サイモン&ガーファンクルの実質的な活動期間は非常に短く、スタジオ・アルバムはわずか5枚、サウンドトラック・アルバムが1枚だけであとはライヴ・アルバムやコンピレーション・アルバムをリリースしています。

一般的に多いのは初期の作品がヒットしたり、ヒットが減少して活動が減ったり解散する場合が多いのですが、デュオとしては最後にリリースしたアルバム「Bridge Over Troubled Water(明日に架ける橋)」が2500万枚と最大のセールスを記録しています。

1990年にロックの殿堂入りを果たし、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第40位。

グラミー賞においては11作品がノミネートされ、7作品が受賞しています。

最後に

いかがでしたでしょうか?

Simon & Garfunkel(サイモン&ガーファンクル)の50年以上に渡る歴史を凝縮して解説してまいりました。

サイモン&ガーファンクルは日本でもヒットを連発し、知名度の高いデュオです。しかし2人組だからなのか、事実上の解散までが早く、また元々友人同士であったためか和解、再結成などを繰り返してきました。

若い世代の方でも「明日に架ける橋」は教科書に載るほどでしたし、近年ではNetflixドラマ「アンブレラ・アカデミー」のシーズン1でGerard Way(ジェラルド・ウェイ)が「冬の散歩道」をカバーするなど楽曲を耳にする機会も多いので、名前くらいは知っている方も多いと思います。

是非この機会に初期の名曲・ヒット曲を知らない世代の方にもSimon & Garfunkel(サイモン&ガーファンクル)の魅力が少しでも伝わればと思います。

以上、Simon & Garfunkel(サイモン&ガーファンクル)についてご紹介しました。