アメリカで最も見られているであろう音楽チャート誌、Billboard(ビルボード)。今ではアメリカに限らず世界中でその名を耳にする音楽チャートの代名詞のひとつにもなっています。
今回はBillboard(ビルボード)の誕生から現在に至るまでの歴史、またBillboard(ビルボード)から見た全米チャートの歴史についてまとめてみました。
Billboard(ビルボード)とは?
洋楽が好きな方はもちろん、あまり聴かない方でも「Billboard(ビルボード)」という言葉は耳にした事があるかもしれません。
「Billboard(ビルボード)」とはアメリカのエンターテイメントメディアブランド。現在の所有者はEldridge Industries(エルドリッジ・インダストリーズ)の一部門である「Hollywood Reporter-Billboard Media Group(ハリウッド・リポーター・ビルボード・メディア・グループ)」です。
音楽情報誌やホームページでニュース、ビデオ、レビュー、イベントなどを含む記事を公開しつつ、全米で最も有名な洋楽チャート「Billboard Hot 100(ビルボード・ホット100)」や「Billboard 200(ビルボード200)」でも広く知られています。またイベント主催やテレビ番組の運営などアメリカの音楽エンターテイメントを牛耳っているといっても過言ではないほど大きな媒体のひとつとなっています。
日本の場合音楽チャートと言えば「オリコン」ですが、近年では「Billboard Japan(ビルボード・ジャパン)」がCDセールス以外の要素を盛り込んだオリジナルの音楽チャートも指標のひとつになってきています。
Billboard(ビルボード)の歴史
Billboard(ビルボード)の歴史は古く、1894年から120年以上に渡って存在している音楽チャートです。ではその誕生から紐解いていきたいと思います。
Billboard(ビルボード)誌の誕生
Billboard(ビルボード)誌第1号は、1894年11月1日。William H.Donaldson(ウィリアム・H.ドナルドソン)とJames H. Hennegan(ジェームス・ヘネガン)という二人が創設者となり、オハイオ州シンシナティで発表されました。
誌名は「Billboard Advertising(ビルボード・アドバタイジング)」。
Billboard(ビルボード)という言葉のみが広まり、商標された企業名と考える人も少なくありませんが、単に「看板広告」という意味から始まっているようです。
ビジネス向けの出版として始まりましたが、1896年ころから移動遊園地やサーカスなど公共スペースに置かれた看板、ポスター、紙広告が広告掲載も織り交ぜていくようになります。
それらを製本化したものが始まりだったわけです。月刊誌として始まり、8ページ構成で10セント。当時のドル円は1ドル2円ほどでしたから、10セントだと20銭程度でしょうか。
当初はWilliam Donaldson(ウィリアム・ドナルドソン)が広告探しと編集を担当し、James Hennegan(ジェームス・ヘネガン)は自身の会社で雑誌の制作を管理していました。
Billboard(ビルボード)誌誕生から初めてのリニューアル
1897年に「The Billboard(ザ・ビルボード)」に誌名を変更し、1900年5月、William Donaldson(ウィリアム・ドナルドソン)が500ドルで事業を買い取り、週刊誌に切り替えリニューアルを図ります。
編集品質を改善し、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコ、ロンドン、パリに新しいオフィスを開設。また内容がぶれてしまっていた状態を見直し、フェア、カーニバル、サーカス、ボードビル、バーレスク・ショーのようなアウトドア・エンターテインメントに再び焦点を絞る事に。さらには規制、プロフェッショナリズムの欠如、経済と新しいショーを含むトピックをカバーし、今では当たり前のようにある芸能人の私生活を掲載する「ゴシップ欄」なども取り入れていきます。
当時のWilliam Donaldson(ウィリアム・ドナルドソン)は、新聞の発行部数等を伸ばすために、事実報道よりも扇情的である事を売り物とする形態のいわゆる「イエロージャーナリズム」と戦っていくなどのニュース記事も発表しています。
また鉄道の発展によって1904年には地方営業などに回れる芸能人のための郵便物の転送システムを導入。
ファンからの手紙などの郵便物を預かって送り届けるという当時画期的なサービスで、最大の利益減のひとつになります。このサービスは1960年代まで続いたようです。
Billboard(ビルボード)チャートのきっかけは「JukeBox(ジュークボックス)」
1920年代には、音響機器の発展によってラジオ放送局を開設。
1925年に創立者のWilliam Donaldson(ウィリアム・ドナルドソン)は亡くなってしまいます。
その後3年の間に再び経営難に陥ってしまいましたが、義理の息子であったRoger Littleford(ロジャー・リトルフォード)が1928年に引継ぎ、また同時期、硬貨を投入することでレコードから選んで演奏を聴けるレコードプレーヤーとスピーカーを組み合わせた「JukeBox(ジュークボックス)」が次々と広まり、ジュークボックス業界は大恐慌を経て成長を続けます。
蓄音機とラジオの普及も音楽の重要性を増していったことに目をつけ、1936年1月4日、ジュークボックスで流れたヒット曲の一覧「Most Played In Jukeboxes」を発表します。
ビルボードチャートの原点です。
当初のBillboardチャートは、全国の店舗で報告された小売店で最も売れているシングルをランキング化した「Best Sellers In Stores」。またBillboardオリジナルのエアプレイチャートとしてDJやラジオ局から報告されたものを米国のラジオ局で最も演奏された曲としてランキング化した「Most Played By Jockeys」。 残念ながらその当時のランキング記録は残っていないようですね。
その後1939年1月には「Record Buying Guide(レコード購入ガイド)」を発表し、1940年7月27日号では初めて独自の統計から割り出した、ヒット曲のチャート「Chart Line(チャートライン)」が導入されました。
現在も続いているBillboard Hot 100の原形とも言えるこのランキングは当時、ラジオで最も多く放送された曲を中心に構成されていました。
この時1位を獲得したのは、Tommy Dorsey(トミー・ドーシー)の「I'll Never Smile Again(アイル・ネバー・スマイル・アゲイン」という楽曲です。
Tommy Dorsey & His Orchestra - I'll Never Smile Again - YouTube
ラジオの普及に連れて、ジューク・ボックス業界向けのチャートは次第にラジオ・エアプレイ・チャートに移行されていきます。
1942年に黒人の音楽専門のレコード・セールス・チャート(後のリズム&ブルースチャート)を掲載、続く1944年にカントリー・ミュージック専門のチャートを掲載するなどジャンルの拡大を行い、この頃にはBillboard(ビルボード)は音楽業界の専門刊行物となっており、従業員も100人を超え、オフィスは、1946年にオハイオ州ブライトンに、その後1948年にニューヨーク市に移住していきました。
Billboard Hot 100の誕生
そして1955年12月12日、「The Top 100」が初めて発行されます。
正式には、「ジュークボックス」「レコード売上」「エアプレイ」と3つのチャートのすべてが重要度の点で同じ「重み」を持っていましたが、「The Top 100」の作成前に曲の演奏を参照するとき、多くのチャートヒストリアンはストアのベストセラーチャートを参照します。
1955年以降ロックの時代が始まるまで、ラジオは黄金期で、音楽ラジオよりも話し言葉のプログラムが多く、物理的なレコードの販売は依然としてレコード人気の支配的な指標でした。
「The Top 100」は、通常、ラジオ放送よりも売り上げ(購入)が多いポイントシステムに基づいて、シングルのパフォーマンス(セールス、エアプレイ、ジュークボックスのアクティビティ)のすべての側面を組み合わせたものです。
店舗でベストセラー、DJが最も選曲した曲、ジュークボックスで最もプレイしたチャートは、新しいトップ100チャートと並行して発行され続けました。
1957年にはジュークボックスの人気が低下し、ラジオ局がより多くのロック指向の音楽をプレイリストに組み込むようになったため、1957年6月17日、Billboardは「Most Played in Jukeboxes」チャートを中止を発表しました。
その翌年1958年7月28日に終了した週ではPerez Prado(ペレス・プラード)の「Patricia(パトリシア)」のインストルメンタル版が1位を獲得しています。
Perez Prado & His Orchestra - Patricia - YouTube
その翌週にあたる1958年8月4日、レコード売上とエアプレイを合算したチャート「Billboard Hot 100」を発表し、以後このスタイルで発表された「Billboard Hot 100」はすぐに音楽業界の標準チャートとして認知されるようになります。
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日本人初の全米1位
時間の経過と共に、Billboardが音楽以外のカバーしていたフェスティヴァルやサーカスの告知などは別々の出版物に分割されました。
ファンスポット誌は1957年にアミューズメントパークをカバーするために創設され、アミューズメント事業は1961年に屋外エンターテインメントをカバーするために創設されます。
1961年1月、Billboardは「Billboard Music Week(ビルボード・ミュージック・ウィーク)」に改名され、音楽に対する新しい独占的関心を強調しますが、2年後には「Billboard(ビルボード)」に改名されます。
そして1963年、日本人が偉業を成し遂げます。
1963年6月15日、坂本九の名曲「SUKIYAKI」(上を向いて歩こう)が「Billboard Hot 100」にて1位を獲得したのです。
以降現在でも日本人が全米1位を獲得した、唯一のアーティスト、唯一の楽曲としても有名です。
しかもその後3週連続で1位を獲得し、1963年年間チャートでも13位を獲得しています。
「SUKIYAKI」(上を向いて歩こう)が全米で大ヒットした背景には、カリフォルニア州フレズノのDJによってラジオでオンエアされ人気が広まっていき、全米での正式リリースがきっかけとなったようです。
アルバム・チャートの進化
1945年からアルバムチャートは存在していましたが、当時はアルバム自体が頻繁に発売されるものでもなかったため、毎週発表されるようになったのは、1956年3月24日から。
1959年5月25日からアルバムチャートはBest-Selling Stereophonic LPs(ステレオアルバムのチャート)とBest-Selling Monophonic LPs(モノラルアルバムのチャート)に分けて集計されていました。
その後1963年8月17日に統合され、Top LPsとしてアルバム・チャートが200位まで発表されるようになり、「Billboard 200」としてその名は現在でも使用されています。
ラジオをきっかけに世界的知名度に
1970年からAmerican Top 40というビルボード誌提供の音楽ラジオ番組が毎週全米で放送され現在はアメリカ国内だけでなく、日本を含む世界中で放送されています。
この番組の影響からBillboardは世界的に認知されるようになり、40位以内にランクインする事がヒットの指標になるとも言われるようになりました。
現在では集計方法の変更に伴うチャートへの影響によってBillboardのチャートは使用されておらず、番組独自の集計方法による発表になっています。
同じ頃日本では、ビルボードと提携した音楽業界誌ミュージック・ラボ(ビルボード・ジャパン・ミュージック・ラボ)が創刊されますが1994年に休刊しています。
流通がレコードからCDの時代へ
そして時代はレコード主流からCD主流へとシフト。そんな中Roger Littleford(ロジャー・リトルフォード)の死によって1970年代後半に息子のビルが出版物を継承しますが、1985年にそれを約4,000万ドルで民間投資家に売却。
1987年、BillboardはAffiliated Publicationsに1億ドルで再び販売、Billboard Publications Inc.はBPI Communicationsと呼ばれるAffiliated Publicationsの子会社となりました。
「Billboard Hot 100」はその頃、「エアプレイ75%」「シングル売上25%」の配分でポイント化し、ランキング化されていましたが、特に1991年末から売上に比重が置かれるようになり、「エアプレイ60%」「シングル売上40%」となります。
この改正以降、「Billboard Hot 100」はヒップホップやR&Bといったブラックミュージック系が上位を占める割合が急激に増加し、エアプレイが主体であるロック系の楽曲が上位を獲得する事が難しくなりました。
1990年代10週以上1位を獲得するビッグヒットとなった曲はブラックミュージック系ばかりとなるようになります。
そしてこの時期以降、時代の変化や音楽の聴き方の変化に伴って集計方法が頻繁に変更されるようになります。それは「ポリシーを改正する度にその都度問題が起きてしまうから」でした。
例えばエアプレイで人気な曲がシングルカットされていない場合は「Billboard Hot 100」の対象外とされていましたが、1998年12月5日付のチャートから、シングルカットしていない曲でもランクインできるように改正し、尚且つエアプレイと売上の比率が3:1に再変更されます。
1994年、Affiliated Publicationsはオランダのメディア企業であるVerenigde Nederlandse Uitgeverijen(VNU)に2億2,000万ドルで販売されます。
その後BPIは、2000年にVNUの他の事業体と組み合わされてビル・コミュニケーションズを設立しました。
VNUはその後、1999年に25億ドルで買収した会社の名前を付けて、2007年にその名前をNielsen(ニールセン)に変更しました。
CDからデジタルダウンロード時代へ
2000年代に入るとシングル市場は崩壊しつつありました。
チャートへの影響としては、「Billboard Hot 100」で初登場1位を記録するも翌週には100以下まで落ちてしまうというもの。
これはエアプレイ主体である以上にシングルCDが売れない時代に突入していた事を表しています。これもひとつの時代表現と言えるでしょうね。
そしてダウンロードが主体となってくるようになり、当時の日本よりもアメリカでは一般化していたため、2005年2月にダウンロードセールスを新たにカウントするようになり、ダウンロード1000件をエアプレイオーディエンス100万人と同ポイントに計算するルールになります。
例えば長年ロックバンドによる1位獲得がありませんでしたが、Maroon 5(マルーン5)の「Makes Me Wonder(メイクス・ミー・ワンダー)」が3週1位を黒くするなどダウンロード売上の導入によって、偏りがちだったジャンルが少しずつ戻ってくるようになります。
Maroon 5 - Makes Me Wonder - YouTube
2007年、阪神コンテンツリンクとの提携を行い、2007年夏にBillboard JAPANとして本格的に日本進出を開始。
翌年2008年より日本版チャートとなる「Billboard Japan Hot 100」が公開されるようになります。
一方でNielsen(ニールセン)は2009年までBillboardを所有していましたが、e5 Global Media Holdingsに販売された8つの出版物の1つとなっていました。
e5とは、買収の目的で投資会社Pluribus Capital ManagementとGuggenheim Partnersによって設立された企業。翌年、新親会社はプロメテウス・グローバル・メディアに改称されています。
Guggenheim PartnersはPluribusのPrometheusの株式を取得し、Billboardの唯一の所有者になります。
2012年には、インターネットでのストリーミング回数も集計に加えられるようになります。
Spotify, Rhapsody, Rdio, Slacker, Muve Music, MOGという音楽のストリーミング・サービスが集計対象。その翌年2013年にはYouTubeも対象となります。
現在のBillboardチャート
2014年には「Billboard 200(ビルボード200)」の集計方法も大幅な改正が行われます。CDやレコードなどの売上やダウンロードなどのデジタル売上に加え、オンデマンド型ストリーミング再生回数、さらに、アルバム収録曲単体のデジタル・セールスも反映されるようになりました。
ストリーミング再生1,500曲分をアルバム1枚としてカウントされるという事で、個人がDJとなって再生するエアプレイとも表現できるような集計方法になりました。
2018年からは更に細分化され、YouTubeを含むビデオコンテンツもカウントの対象となり、現在はストリーミングが圧倒的な比重を持つチャートになっています。
最後に
Billboard(ビルボード)の歴史はチャートの歴史。
集計方法も所有者もころころ変わる印象を受けます。
もちろんころころ変わるのは時代に合わせた内容を追求するためであり、これがBillboard(ビルボード)だとも言えるかもしれません。
以上、Billboard(ビルボード)の歴史から見た全米チャートを紐解くと題してその歴史を振り返ってまとめてみました。