結成60周年のザ・ローリング・ストーンズ、激動の歴史を深掘り解説【前編】

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洋楽コラム

2022年7月12日に結成60周年を迎えたThe Rolling Stones(ザ・ローリング・ストーンズ)

いくつかの解散の危機を乗り越え、1度も解散することなく第一線で活躍を続け、史上最も売れたロック・バンドの1組に挙げられるザ・ローリング・ストーンズの激動の歴史を【前編】【後編】に分けてに解説していこうと思います。

前編となる今回は主に60年代に焦点を当てて振り返っていきます。

後編もCHECK!!
結成60周年のザ・ローリング・ストーンズ、激動の歴史を深掘り解説【後編】

The Rolling Stones(ザ・ローリング・ストーンズ)のプロフィール

The Rolling Stones
IMAGE VIA:Fantastic images from the early days of The Rolling Stones – GQ

The Rolling Stones(ザ・ローリング・ストーンズ)は1962年にロンドンで結成されたイギリスのロックバンド。

60年間活動し、ロック時代の最も人気があり、不朽のバンドのひとつです。

バンドの推定レコード・セールスは2億枚で、史上最も売れた音楽アーティストのひとつです。バンドは3つのグラミー賞とグラミー生涯功績賞を受賞しています。彼らは1989年にロックの殿堂入りし、2004年に英国音楽の殿堂入りを果たしました。

CHECK!!
The Rolling Stones(ザ・ローリング・ストーンズ)のプロフィール・バイオグラフィーまとめ

それではザ・ローリング・ストーンズのキャリアを見ていきましょう。

The Rolling Stones(ザ・ローリング・ストーンズ)のキャリア

ミック・ジャガーとキース・リチャーズ

ミック・ジャガーとキース・リチャーズ
IMAGE VIA:A train platform, Mick Jagger, Keith Richards

Mick Jagger(ミック・ジャガー)は1943年7月26日にケント州ダートフォードの中産階級の家庭に生まれました。母親はイギリス保守党の活動的なメンバーで、父親は元体操選手の経歴を持つ、英国でバスケットボールの普及に貢献した体育教師。祖父も教師でした。

父親同様、教師となるよう育てられていたミックでしたが、本人曰く、子供の頃はいつも歌っていたそう。1954年にケント州ウィルミントンに引っ越すまで、ダートフォードのウェントワース小学校に通っていましたが、同じ小学校に通っていたのが、Keith Richards(キース・リチャーズ)。同じく1943年12月18日にイギリスのケント州ダートフォードにあるリビングストン病院で生まれたキースは、彼の母方の祖父がジャズ・ビッグ・バンド、Gus Dupree and His Boys(ガス・デュプリー・アンド・ヒズ・ボーイズ)と共にイギリスをツアー出回っていたこともあり、幼いころからギターに興味があったそうです。本人曰く、最初にギターをくれたのが祖父だったそう。ミックとキースは同級生でしたが、顔見知り程度で特段親しかったわけでもなかったようです。

1950年代半ば、ミックは友人のDick Taylor(ディック・テイラー)とガレージバンドを結成。バンドは主にMuddy Waters(マディ・ウォーターズ)やChuck Berry(チャック・ベリー)、Little Richard(リトル・リチャード)などのカバーを行っていました。1961年10月17日、ダートフォード駅の2番線でキースと偶然の再会を果たし、ミックが持っていたチャック・ベリーとマディ・ウォーターズのレコードはキースも興味があったことで話がはずみます。これをきっかけにキースはディックと共にミックの家にしばしば行くようになります。その後はディックの家で集まるようになり、Alan Etherington(アラン・イーサリントン)とBob Beckwith(ボブ・ベックウィズ)がトリオに加わりました。彼らは自分たちをBlues Boys(ブルース・ボーイズ)と自称していました。

1962 ザ・ローリング・ストーンズの結成

ザ・ローリング・ストーンズの結成
IMAGE VIA:Watch Bill Wyman Explain How he Joined the Rolling Stones in 1962 – Rolling Stone

1962年3月、ブルース・ボーイズはジャズ・ニュース新聞でイーリング・ジャズ・クラブについて読み、グループは最高のレコーディングのテープをAlexis Korner(アレクシス・コーナー)に送り、アレクシスは感銘を受けます。その後彼らはイーリング・ジャズ・クラブを訪れ、スライド・ギタリストのBrian Jones(ブライアン・ジョーンズ)、キーボーディストのIan Stewart(イアン・スチュワート)、ドラマーのCharlie Watts(チャーリー・ワッツ)を含むBlues Incorporated(ブルース・インコーポレーテッド)のメンバーに会い、ミックとキースはグループとのジャムセッションを開始します。

イアンは練習場所を見つけ、ブライアンと共に参加し、シカゴブルースを演奏するバンドを結成します。ディックは当初リードギターを弾いていましたが、ブライアンが参加したことでベースにシフトしました。その翌月、ミック、ディック、キースはブルース・インコーポレイテッドを離れ、ブライアンとイアンに加わります。最初のリハーサルには、ギタリストのGeoff Bradford(ジェフ・ブラッドフォード)とボーカリストのBrian Knight(ブライアン・ナイト)が含まれていましたが、彼らは、ミックとキースが好むチャック・ベリーとボ・ディドリーの曲を演奏することに反対したため、どちらもバンドに参加しないことにしました。

同月、ドラマーのTony Chapman(トニー・チャップマン)が加わり、ミック、キース、ブライアン、イアン、ディックのラインナップが完成。キースによると、ブライアンはジャズニュースへの電話中にバンドの名前を挙げました。 ジャーナリストからバンドの名前を尋ねられたとき、マディ・ウォーターズのLPが床に横たわっているのを見て、その中の1曲「Rollin’ Stone(ローリン・ストーンズ)」と答えました。

1962年7月12日にロンドンのマーキー・クラブでthe Rollin’ Stones(ザ・ローリン・ストーンズ)名義での最初のショーを行いますが、その後ディックは在学中だったシドカップ・アート・カレッジに戻るため脱退を決意。1962年12月7日にチェルシーのパブでベースの役割についてオーディションを受けたBill Wyman(ビル・ワイマン)は、ディックの後継者として採用されました。

1963 アンドリュー・ルーグ・オールダムとの出会い

アンドリュー・ルーグ・オールダムとの出会い
IMAGE VIA:Andrew Loog Oldham: the mastermind of The Rolling Stones

1963年1月12日、イーリング・ジャズ・クラブで、チャーリーがドラムを担当したクラシックなラインナップが初めて公の場で演奏されました。しかし、チャーリーがバンドの恒久的なドラマーになったのは翌2月2日で、そこまでは正式なメンバーではありませんでした。

バンドは最初の英国ツアーを開始し、シカゴのブルースとチャック・ベリーとボ・ディドリーの曲を演奏して回りました。既に彼らは音楽的進歩と人気を獲得していたこともあってグループの当時の代理マネージャー、Giorgio Gomelsky(ジョルジオ・ゴメルスキー)は、1963年2月、ロンドンのリッチモンドにあるクロウダディ・クラブで日曜の午後のレジデンシーを確保します。

以後クロウダディ・クラブで反映に腕を磨いていたバンドは1963年4月28日、Andrew Loog Oldham(アンドリュー・ルーグ・オールダム)が訪れたことで大きな転換期が訪れます。アンドリューはバンドにアプローチしたことで翌5月、バンドはマネージャーとして契約することとなります。アンドリューは当時、イギリスとアメリカのミュージシャン、そしてプロデューサーのJoe Meek(ジョー・ミーク)の広報担当者として活動しており、そのひとつとしてビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインの下でビートルズの宣伝係を担当していました。

19歳だったアンドリューはエージェントの免許を取得したり、母親の共同署名なしに契約書に署名したりすることはできなかったため、必要に応じて、彼は予約エージェントのEric Easton(エリック・イーストン)と協力して、記録的な資金調達と予約会場の支援を確保しました。ジョルジオは書面での契約を交わしていなかったため、この決定についての相談はなかったそうです。

アンドリューはビートルズのマネージャーであるBrian Epstein(ブライアン・エプスタイン)が使用した戦略を適用して、バンドのメンバーにスーツを着用させようとしました。しかし後に気が変わり、ビートルズとは対照的な、比類のない服装、長い髪、汚れた外見を特徴とするバンドを想像しました。バンドを「不潔で、派手で、予測不可能な好ましくない連中」にし、「ストーンズが威嚇的で、野蛮で、動物的であることを立証する」ことを望みました。

またミック、キース、ブライアン、イアン、チャーリー、ビルと6人編成だったバンドについてアンドリューはメンバーが多すぎるとして、年上で体格の良いイアンはイメージと合わないとしクビにしようとしましたが、ロード・マネージャーとして残り、レコーディングでピアノを弾くことができると言い主要メンバーからは除外されるも残りました。

1963-1964 メジャー・デビュー

ビートルズとの契約を拒否したデッカ・レコードは、ローリング・ストーンズに有利な条件でレコーディング契約を結びます。バンドは、新人バンドの通常の3倍のロイヤルティレート、レコーディングの完全な芸術的コントロール、レコーディング・マスター・テープの所有権を得て、この契約により、バンドはデッカ以外のレコーディング・スタジオを使用することもできました。

中でもロンドンにあるRegent Sound Studios(リージェント・サウンド・スタジオ)は、天井に音響処理用のエッグ・ボックスを備えたモノラル施設で、彼らの好みの場所になりました。さらに予約率が低かったため長時間の滞在もできたため、最初のアルバム、『The Rolling Stones(ザ・ローリング・ストーンズ)』のすべてのトラックはそこで録音されました。

1963年6月7日にデビュー・シングルとしてチャック・ベリーの「Come On(カム・オン)」をリリース。ファンクラブのメンバーは、ファンクラブのメンバーは、チャートによって投票されたレコードショップでコピーを購入しサポート。その甲斐あって全英チャートで21位を獲得しました。この時代から戦略的にチャートで成果を出すことがなされていたようです。

その後英国でのビッグ・コンサート・ツアーを行い、バンドに舞台技術を磨く機会を与えました。またその間、Lennon-McCartney(レノン=マッカートニー)が書いた「I Wanna Be Your Man」というタイトルのセカンド・シングルを録音しリリース。全英チャートで前作を上回り、12位まで上昇しました。

1964年1月1日、BBCのトップ・オブ・ザ・ポップスで「I Wanna Be Your Man」を演奏した最初のバンドでした。その後3枚目のシングル、Buddy Holly(バディ・ホリー)の「Not Fade Away」は、Bo Diddley(ボ・ディドリー)のスタイルを反映しており、1964年2月にリリースされ、3位を獲得するヒットとなりました。その後デビュー・アルバム『The Rolling Stones(ザ・ローリング・ストーンズ)』をリリース。デビュー作ながら全英アルバム・チャートでは12週連続1位を記録し、翌月にはアメリカで『England’s Newest Hit Makers(イングランズ・ニューエスト・ヒット・メーカーズ)』というタイトルでリリースされました。ビルボード200での最高位は11位。

同年6月カバーが中心だったこの時、唯一ミックとキースが書いた「Tell Me (You’re Coming Back)(邦題:テル・ミー)」はアルバムからの最後のシングルとしてリリースされています。

Tell Me

同じ月、シングル「It’s All Over Now」をリリースし、初の全英1位を獲得するほど人気を得ていた一方で、同時期に行われたバンドの最初の米国ツアーは「惨事」だったと後にビルが述べています。これは人気を得ていたもののヒット曲がなかったためとしています。

バンドがバラエティ番組『The Hollywood Palace』に出演した際、その週のゲストホストであるDean Martin(ディーン・マーティン)は、彼らの髪型とパフォーマンスの両方を嘲笑しました。10月には人気テレビ番組『エド・サリヴァン・ショー』に出演しました。

The Rolling Stones Live, 25/10/1964, Ed Sullivan Theatre, NY

その後アメリカでの2枚目のスタジオ・アルバム『12 X 5』をリリース。5枚目のイギリスでのシングルは、Willie Dixon(ウィリー・ディクソン)の「Little Red Rooster(リトル・レッド・ルースター)」のカバーで、同年11月にリリースされ、2度目の1位を獲得。アメリカでのディストリビューターであるロンドン・レコードは「Little Red Rooster」のシングル化を拒否し、「Heart of Stone」、「What a Shame」を両面シングルとしてリリース。ビルボードホット100では19位にランクインしました。

1965-1967 人気

イギリスでの2枚目のスタジオ・アルバム『The Rolling Stones No. 2(ザ・ローリング・ストーンズ No.2)』は1965年1月にリリースされ全英チャート1位となり、翌月にはアメリカでの3枚目のスタジオ・アルバム『The Rolling Stones, Now!(ザ・ローリング・ストーンズ・ナウ!)」をリリース。ビルボード200で5位を獲得します。どちらもシカゴのチェス・スタジオおよびロサンゼルスのRCAスタジオで録音されました。同年1月から2月にかけてバンドはオーストラリアとニュージーランドで34回のショーを行い、10万人を動員しています。

2月に発売されたシングル「The Last Time(ラスト・タイム)」は、ミックとキースが書いた曲としては初めて、全英チャートで1位を獲得しました。後にキースはこの作品を「ストーンズのために作曲することを考えるきっかけになった」と語っています。

バンド3回目の北米ツアー中に録音したシングル「(I Can’t Get No) Satisfaction(邦題:サティスファクション)」は初めて世界的な成功をおさめ、ビルボードホット100では4週連続1位を獲得し100万枚以上の出荷枚数を記録。代表曲のひとつになりました。

The Rolling Stones – (I Can't Get No) Satisfaction (Official Lyric Video)

この年の春、アンドリューは当時音楽ビジネスのベテランだったエリックとの初期の権力闘争に勝利する手助けをしてくれる人物だったAllen Klein(アレン・クライン)が素晴らしいビジネス・アドバイザーであり味方であることに気づいており、「(I Can’t Get No) Satisfaction」が全米1位を獲得したことも相まってデッカ・レコードとのグループ契約の再交渉のためアレンをビジネス・マネージャーとして採用しました。

翌1966年の春にこれらを収録しリリースされたアルバム『Aftermath(アフターマス)』は、ミックとキースの曲だけで構成された最初のアルバムとなり、イギリスで1位、アメリカで2位を獲得。イギリスでも2週連続で1位となり、イギリスとアメリカでの成功は1960年代にピークを迎えます。このアルバムでブライアンは、ギターとハーモニカ以外にも活躍の場を広げ、中近東の影響を受けた「Paint It, Black(邦題:黒くぬれ!)」には北インド発祥の弦楽器シタールを、バラードの「Lady Jane(レディ・ジェーン)」には英国やアイルランドの伝統音楽で多用される弦楽器ダルシマーを、「Under My Thumb(アンダー・マイ・サム)」には鍵盤打楽器のマリンバを加えています。アルバムには、ジャムや即興の要素を含んだ12分近い「Goin’ Home(ゴーイン・ホーム)」も収録されていました。

1966年6月と7月の北米ツアー中、バンドのエネルギッシュなコンサートは若者に大成功を収めましたが、反抗的な群衆を取り締まるという肉体的に疲れ果てた仕事をしていた地元の警察を遠ざけました。レーベルはストーンズのスタジオ・アルバム間のマーケティング・ギャップを埋めようとして、米国市場での人気を利用するため、バンド初のライヴ・アルバム『Got Live If You Want It!(ガット・ライヴ・イフ・ユー・ウォント・イット!)』をイギリスでリリースします。当初はロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでの1回のライヴ・パフォーマンスを丸ごと収録するアイデアでしたが、最終的にはブリティッシュ・ツアーからリヴァプールとマンチェスターのステージを収録することになります。

1967年1月には5枚目のスタジオ・アルバム『Between the Buttons(ビトウィーン・ザ・バトンズ)』がリリースされ、英国で3位、米国で2位になりました。今作はアンドリュー最後のプロデュース作品となりました。同年、ミックとキースが麻薬所持で逮捕されたとき、彼らの法的弁護と広報のための戦略を考案する代わりに、アンドリューは米国に逃亡し、アレンに問題の対処を任せました。アンドリューはその年の後半にマネージャーを辞任し、翌年にはグループの音楽の権利をアレンに売却しています。

この流れはアルバムがリリースされた頃、イギリスのタブロイド紙、ニュース・オブ・ザ・ワールドが「Pop Stars and Drugs: Facts That Will Shock You(ポップ・スターとドラッグ:衝撃的な事実)」と題した3部構成の特集を組んだことで、薬物使用について当局から追われるようになったことにつながります。このシリーズは、ムーディー・ブルースが主催し、The Who(ザ・フー)のPete Townshend(ピート・タウンゼント)やCream(クリーム)のGinger Baker(ジンジャー・ベイカー)などのトップスターが参加したとされるLSDパーティーについて説明し、主要なポップミュージシャンによる薬物使用の疑いについて書かれており、最初の記事ではDonovan(ドノヴァン)がターゲットとなり、2番目の記事でバンドがターゲットとなりました。

記事が掲載されてから2日後、ミックはニュース・オブ・ザ・ワールドに対して名誉毀損の令状を提出。しかし1週間後の2月12日、サセックス警察はこの紙から情報を得て、キースの自宅、レッドランズでパーティーを強制捜査しました。当時、逮捕者は出ていませんでしたが、その後、麻薬犯罪で起訴。同年3月、警察の強制捜査の結果を待つ間、ミック、キース、ブライアンは、ガールフレンドや友人を伴ってモロッコへ短い旅行に出かけました。その後3月と4月にヨーロッパをツアーしました。ツアーには、ポーランド、ギリシャ、イタリアでのバンドの最初の公演が含まれていました。

翌5月10日、ミック、キースがレッドランズの告発に関連して罪状認否を受けた日、ブライアンの家は警察に家宅捜索されました。彼は逮捕され、大麻所持で起訴されます。メンバー5人の内3人が麻薬容疑で逮捕され、バンドはファンが示す忠誠心への感謝の気持ちとして、ニューシングル「We Love You(邦題:この世界に愛を)」をリリースしました。今作はアンドリューのプロダクション・クレジットを受け取った最後の曲となり、コーラスにはJohn Lennon(ジョン・レノン)とPaul McCartney(ポール・マッカートニー)が参加しています。

The Rolling Stones – We Love You (Official Music Video)

1967年12月、バンドは新たなスタジオ・アルバム『Their Satanic Majesties Request(サタニック・マジェスティーズ)』をリリースし、全英チャートで3位、全米チャートで2位を記録するも、初のセルフプロデュースとなった今作はビートルズの『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』の悪い模倣とされあまりいい評価は得られませんでした。

1968-1979 ブライアンの脱退と死

1968年に入ると次のスタジオ・アルバムのレコーディングセッションに入り、そこで制作されたシングル「Jumpin’ Jack Flash(ジャンピン・ジャック・フラッシュ)」をリリース。カントリーとブルースにインスパイアされた今作はリズムとブルースのルーツに戻ったことを示し、2年ぶりに全英チャートで1位を獲得。バンドの代表曲のひとつとなりました。また今作からプロデュースに参加したJimmy Miller(ジミー・ミラー)を迎えたスタジオ・アルバム『Beggars Banquet(ベガーズ・バンケット)』1968年5月の政変をテーマにしたリードシングル「Street Fighting Man(ストリート・ファイティング・マン)」や「Sympathy for the Devil(悪魔を憐れむ歌)」などを収録。公衆トイレの壁に落書きされたアルバム・ジャケットのデザインをめぐって論争が起こり、アルバムの発売が半年近く遅れました。 全英チャートで3位、全米チャートで5位を達成しました。

The Rolling Stones – Jumpin' Jack Flash (Official Music Video) (With Makeup)

またこの時期、イアンの提案でトラックにコントロール・ルームを設置し、ローリング・ストーンズ・モバイル・スタジオ(通称RSM)を作りました。当時、商用レコーディング・スタジオの9時から5時までの制限にうんざりしており、リハーサルや作曲に費やされるスタジオ時間に対して請求されることもありました。イアンは多くのトップ エンジニアとプロデューサーがプロジェクトの作成について相談を受けながらミキシング・コンソールを作成。当初はバンドが使用するためだけに作られたものの、後に多くのバンドへ貸し出し使用しています。

バンドは1969年に3年ぶりの北米ツアーを行うことを熱望していましたが、ブライアンはこの時期、薬物使用が障害となり、アメリカのビザを取得することができませんでした。6月にミック、キース、チャーリーと共にブライアンの家で話し合いが行われ、結果的にブライアンは脱退。そのわずか1ヶ月足らずの1969年7月3日、ブライアンはハートフィールドにあるコットフォード・ファームの自宅のプールで謎の溺死体で発見されました。

7月5日に、ロンドンのハイド・パークにあるブラックヒル・エンタープライズの無料コンサートで演奏を行う予定だったこともあり、ブライアンの追悼コンサートとすることに決めます。後任として何人かのギタリストをオーディションし、ミュージシャンのJohn Mayall(ジョン・メイオール)からの推薦でMick Taylor(ミック・テイラー)に決まりました。テイラーはJohn Mayall&the Bluesbreakers(ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ)のメンバーでしたが脱退するかたちでバンドに加入します。

推定30万人のファンの前で行われた追悼コンサートはGranada Televisionの制作チームがこのパフォーマンスを撮影し、「ストーンズ・イン・ザ・パーク」としてイギリスのテレビで放送されました。コンサートでは前日にリリースされたシングル「Honky Tonk Women(ホンキー・トンク・ウィメン)」が初披露され、4曲目となる全英・全米同時1位を獲得。こちらもバンドの代表曲のひとつとなりました。

Rolling Stones – Honky Tonk Women (Hyde Park, 1969)

アメリカでのツアーが終わるとオルタモント・スピードウェイで行われたオルタモント・フリーコンサートに出演。国際的モーターサイクル・ギャングとして知られるヘルズ・エンジェルスをセキュリティとして500ドル相当のビールを報酬として雇いましたが、ヘルズ・エンジェルスのメンバーによって黒人青年が殺害されるという事件が起きます。ツアーの一部とオルタモント・コンサートの様子はメイスルズ兄弟の手によってドキュメンタリー映画『Gimme Shelter(ギミー・シェルター)』として公開されました。このライヴ音源は同年12月、海賊盤専門のレーベルTrademark of Qualityによって『Live’r Than You’ll Ever Be』というタイトルで発売されました。諸説ありますが今作が初の海賊盤ライヴ・アルバムだとの声もあるようです。この対応として1970年9月、2枚目(メジャーでは初)のライヴ・アルバム『Get Yer Ya-Ya’s Out!(ゲット・ヤー・ヤ・ヤズ・アウト)』をリリース。ライヴ・アルバムとして初の全英1位を獲得しました。

1970-1973 独立と絶頂

1970年、バンドはアラン・クレインおよびデッカ・レコードとの契約を終了。自らのレーベル「ローリング・ストーンズ・レコード」を設立。このレーベルは当初、チェス・レコードの創設者であるLeonard Chess(レナード・チェス)の息子であるMarshall Chess(マーシャル・チェス)が率いていました。同レーベルの配給はアメリカではアトランティック・レコードの子会社アトコ・レコードが行い、イギリスを含む他の地域では当時アトランティックを含むワーナー・グループのオーナーであったキニー・コーポレーションが行う形がとられました。

翌1971年、スタジオ・アルバム『Sticky Fingers(スティッキー・フィンガーズ)』をリリース。Andy Warhol(アンディ・ウォーホル)がデザインした精巧なカバーが特徴的で、ジャケットには、レーベルのロゴが初めて使用され、これが事実上のバンドロゴとなりました。またデザイナーのJohn Pasche(ジョン・パッシェ)によって制作された舌を重ねたバンドを象徴するロゴは、ヒンズー教の女神カーリーの突き出た舌を模倣するというジャガーの提案に従って作られました。このロゴは、グッズやステージ・セットに加えて、バンドの1970年以降のすべてのアルバムとシングルに残っています。アルバムは初めて全英・全米共に1位を獲得し、デビュー以来最大のヒット作となりました。

アルバムのリリース後、財務マネージャーのPrince Rupert Loewenstein(プリンス・ルパート・ローウェンスタイン)は税金が処理されていると確信していたにもかかわらず、バンドが7年間税金を払っていなかったことを知り、次の会計年度の開始前にイギリスを離れることを提案。メンバーは南フランスに移り、そこでキースは南フランスのコートダジュールにあるヴィルフランシュシュルメールの海の上の岬にベルエポックの間に建てられた16室の邸宅を借りて部屋をメンバーとその側近に貸し出しました。

ローリング・ストーンズ・モバイル・スタジオを使用してレコーディング・セッションを行い、ロサンゼルスのサンセット・スタジオでアルバム『Exile on Main St.(メイン・ストリートのならず者)』を完成させます。今作は1972年にイギリスで10枚目、アメリカでは12枚目のスタジオ・アルバムとしてリリースされ、再び全英・全米共に1位を獲得。またアルバムの準備をしていた1971年、デッカ・レコード時代の作品の版権者であるアラン・クレインのレコードレーベル、アブコ・レコードからコンピレーション・アルバム『Hot Rocks 1964-1971』がリリースされます。今作はバンドにとってアメリカで最大のヒット・アルバムとなり、1200万枚を売り上げました。

1972年、バンドのメンバーは税額を減らすために複雑な財政構造を設定。彼らの持株会社であるPromogroupは、ロイヤルティの支払いに直接課税していないオランダと、カリブ海の両方にオフィスを構えました。以来、バンドはイギリスを主な居住地とすることができないため、租税回避者となってしまいました。持ち株会社との取り決めにより、バンドは過去20年間の総収入2億4200万ポンドに対して、わずか1.6%の税金しか払っていないと言われています。

同年秋にはジャマイカのキングストンで次のスタジオ・アルバム『Goats Head Soup(山羊の頭のスープ)』のレコーディング セッションを開始するも、ドラッグに関する別の法廷闘争で中断されます。アルバムは翌1973年の夏にリリースされ、3作連続で全英・全米共に1位を獲得。今作はジミーがプロデュースした最後の作品となりました。

またこの年、ミックが1967年と1970年に麻薬容疑で有罪判決を受けたことが影響し、パシフィック・ツアーのスケジュールは複雑なものとなりました。キースが6月にイギリスで麻薬容疑で逮捕された事も重なり、ヨーロッパツアーはフランスを迂回しながら9月から10月にかけて行われました。

1974-1977 ロン・ウッド

ツアー終了後、ドイツのミュンヘンにあるミュージックランド・スタジオで次のスタジオ・アルバム『It’s Only Rock ‘n Roll(イッツ・オンリー・ロックン・ロール)』のレコーディングを開始。ジミーはセッションの途中で降板し、ミックとキースがThe Glimmer Twins(グリマー・ツインズ)という名義でプロデュースを担当します。翌1974年にリリースされたリードシングル「It’s Only Rock’n Roll (But I Like It)(イッツ・オンリー・ロックン・ロール)」は全米で16位にとどまり、これまで3作連続でアルバムからのリードシングルのトップ10入りがストップ。全英チャートでも10位といい結果は残せませんでした。この曲の原型はイギリスのロックバンドFaces(フェイセズ)のギタリストで後のメンバーとなるRon Wood(ロン・ウッド)によるものだと言われています。

The Rolling Stones – It's Only Rock 'N' Roll (But I Like It) – OFFICIAL PROMO

『It’s Only Rock ‘n Roll』はテイラーが参加した最後のアルバムとなりました。テイラーは何年にもわたって「疲れ果てた退役軍人の中の下級市民」のように感じながら、バンドの状況は通常の機能を複雑にし、メンバーはさまざまな国に住んでおり、法的障壁によりツアーできる場所が制限され、薬物使用がテイラーとキースの生産性に影響を与え始め、テイラーは自分の創造的貢献のいくつかが認識されなくなっていると感じていました。最終的に同年末、テイラーはバンドを脱退します。

バンドは後任ギタリストを探すため、ミュンヘンで行われた次のアルバムのレコーディング・セッションは、バンドへの参加を希望する一部のギタリストに機会を提供しました。メディアは「グレイト・ギタリスト・ハント」と呼び、ストーンズの新メンバーが誰になるかを予想し大いに煽ることとなりました。ロン・ウッドがオーディションを受けたとき、誰もが彼が正しい選択であることに同意。彼はすでにキースと一緒に録音してライヴで演奏しており、「It’s Only Rock ‘n Roll」の録音と作成に貢献していました。しかしこの時点ではフェイセスのメンバーだったこともあり正式加入はせず、ミックからの申し出を断っています。当時フェイセスのリード・シンガーだったRod Stewart(ロッド・スチュワート)は、ロンがストーンズに加入しないことに賭けるとまで言っていました。しかし

1975年のアメリカでのツアーはニューヨーク市で始まり、バンドはブロードウェイを下るフラットベッド・トレーラーで演奏しました。ツアーでは、巨大な男根やロープなどのステージ小道具が登場し、ミックが観客の上を振り回しました。翌1976年にはフェイセスが1975年に解散したことによって、ロンは正式にメンバーとなりました。しかし、他のメンバーとは異なり、ロンは給料制で、1990年代初頭に最終的にストーンズのビジネス・パートナーシップに参加するまでその状態が続きました。

同年6月、イギリスのネブワースで行われた「ネブワース・フェスティバル」に参加。25万人の前で演奏し、これまでで最大の観客を前にしました。同年、ロンが初参加したスタジオ・アルバム『Black and Blue』もリリースされます。アルバムにはロンの他にギタリストのオーディションとしてセッションに参加したHarvey Mandel(ハーヴェイ・マンデル)、Wayne Perkins(ウェイン・パーキンス)もクレジットされました。

その後ミックはトロントのクラブ、エル・モカンボでのライヴ・レコーディング・セッションを予約。しかし、ヘロインによる依存症状がかなり悪化していたキースがヘロイン不法所持によってカナダの騎馬警察隊に逮捕されたことで予定されていたリハーサルに遅れて到着。翌1977年に1975年夏の北米ツアー、1976年のヨーロッパ・ツアー、1977年のトロント公演、エル・モカンボでの模様が収録された7年ぶりとなるライヴ・アルバム『Love You Live(ラヴ・ユー・ライヴ)』をリリースしました。

キースに対する裁判は1年以上長引くこととなり、結局は執行猶予を受け、オシャワで2回のチャリティ・コンサートを行うよう命じられます。2つのコンサートは共にローリング・ストーンズとロン・キースによるサイド・プロジェクト、New Barbarians(ニュー・バーバリアンズ)の共演で行われました。

1978-1982 商業的成功

1978年、バンドにとって商業的な成功が続きました。ロンが全曲で参加したスタジオ・アルバム『Some Girls(女たち)』のリードシングル「Miss You(ミス・ユー)」が5年ぶりの全米1位を獲得。当時ツアー・メンバーを務めていたキーぼーでぃすと、Billy Preston(ビリー・プレストン)と共に行ったジャムから発展し、ディスコ・ソングの要素を兼ね備えました。パリのパテ・マルコーニ・スタジオで開催されたセッションでは、その1か月後にリリースされたアルバムは、パンク・ロックやニューウェイヴなどの要素を兼ね備えながらも基本への回帰を示し、アメリカではスタジオ・アルバムとしては最大のヒットを記録します。アルバムの成功により、バンドの若者の間での絶大な人気が再確立されました。

The Rolling Stones – Miss You – OFFICIAL PROMO

同年アメリカでツアーを行い、その後すぐ、ロサンゼルスのRCAスタジオで次のアルバム『Emotional Rescue(エモーショナル・レスキュー)』のレコーディング・セッションに入ります。レゲエやダブへもアプローチをかけるなど新たな試みにも挑戦しました。この間、キースの裁判やニュー・バーバリアンズなどのライヴ、ロンのソロ・アルバムなどのスケジュールを挟み、バハマやパリでも録音され、1979年の末には完成。翌1980年にリリースされると前作のヒットの影響も相まって、7年ぶり4作目となる全英・全米同時1位を獲得しました。

しっかりと時間をとって制作されたものの、後にほとんどが前作からのあまりものだったとミックが語っており、さらにこのセッション中にミックとキースの間に亀裂が徐々に生じていました。音楽的嗜好に違いやキースが考えるプロモーション戦略をミックが辞退するなど、あまりいい空気ではなかったようです。辞退の影響でアルバムのツアーが1年延期され、バンドが再び集まったのは翌1981年。その年に米国ツアーを行うことを決定したため、新しいアルバムの作成と録音、およびツアーのリハーサルを行う時間がほとんどありませんでしたが、ミックとキースの関係が改善されず、思うようなセッションは進みませんでした。

キースが後に「Tattoo Youのことは、新しいものを書くのをやめたということではなく、時間の問題でした。ツアーに出ることに同意し、レコードの後ろでツアーをしたかったのです。何もありませんでした。まったく新しいアルバムを作り、ツアーを開始する時です。」と語るように、アルバム『Tattoo You(刺青の男)』は主に以前のレコーディング・セッションからのアウトテイクで構成されたアルバムとなりました。

以前のレコーディング・セッションからのアウトテイクを引っ張ってくるという手法は、かつて『Sticky Fingers』で関わっていたアソシエート・プロデューサーのChris Kimsey(クリス・キムジー)の提案によるものでした。曲の多くは、この時点でボーカルが録音されていないインストルメンタル・バッキング・トラックで構成されていたため、そこから歌詞とメロディを付け加える作業などが行われました。年代も録音場所もバラバラである楽曲をうまくまとめ上げ、全米チャートでは8作連続で1位を獲得し、『Emotional Rescue』を超えるヒットとなりました。リードシングルの「Start Me Up(スタート・ミー・アップ)」はイギリスで3曲目となるプラチナ認定を獲得しています。

The Rolling Stones – Start Me Up – Official Promo

3年ぶりとなる全米ツアーは公演の規模が70年代のツアーとは破格の規模であり、これまでで最大、最長、そして最もカラフルなプロダクションでした。その年の最高の興行収入を上げたツアーとなりました。翌1982年にはバンドの結成20周年を祝うヨーロッパ・ツアーも行われ、開催に合わせてアメリカでのツアーの様子を収めたライヴ・アルバム『Still Life(スティル・ライフ)』がリリースされました。また同年、新しいレーベル、CBSレコードと、当時史上最大のレコード契約である5000万ドル(当時のレート換算で約124億円)で新たな4枚のアルバムのレコーディング契約を結びました。

1983-1988 イアンの死と解散危機

ローリング・ストーンズ・レコードは1983年、アメリカでコロムビア・レコード、イギリスではCBSレコードと契約。アトランティックを去る前に、スタジオ・アルバム『Undercover(アンダーカヴァー)』をリリース。レコーディング・セッションはパリやバハマ、ニューヨークで行われ、過去2作とは異なり完全新作が制作されました。しかし全英3位、全米4位と振るわず、ツアーも行われませんでした。

その後ミックはCBSレコードとソロ契約を結び、1984年の大半をファースト アルバムの曲作りに費やしたことで、キースとの亀裂が大幅に拡大していました。ミックは「ローリング・ストーンズへの関心がますますなくなっている」とすら宣言していました。そのため、新たなレーベルの最初のアルバムとなった『Dirty Work(ダーティ・ワーク)』はこれまでで最も前作から時間の空いた2年半が経過していました。ミックが制作にあまり参加しなかったこともあり、外部からSteve Lillywhite(スティーブ・リリーホワイト)がプロデューサーとして参加し、キースが軸となっていくつかの曲ではロンもクレジットに加わりました。全英・全米共に4位に終わるも、世界的に見ればトータルセールスは前作を上回る結果となりました。

アルバムのレコーディングにも参加していたイアンが1985年12月、呼吸器系の問題を抱え始め、そのわずか数日後の1985年12月12日、検査するために診療所に行きましたが、待合室で心臓発作を起こし急逝。翌1986年2月にロンドンの100クラブで彼のためにプライベート・トリビュート・コンサートを行いました。その2日後、彼らはグラミー生涯功労賞を授与されました。

『Dirty Work』のリリース後、ミックはキースとの関係が最悪だったため、アルバムのツアーを拒否。ミックはソロで成功し、自身のソロ・ツアーを行うなど解散寸前とも言える状態でした。バンドはほとんど活動停止となり、キースもソロ・アルバムをリリースしています。

前半はここまで

いかがでしたでしょうか?The Rolling Stones(ザ・ローリング・ストーンズ)の長きに渡る歴史の中でも前編では60年代~80年代に焦点を当てて解説してまいりました。

ここから90年代以降のストーリー、そして現在までをまとめた【後編】へ続きます。是非そちらもご覧ください。

後編もCHECK!!
結成60周年のザ・ローリング・ストーンズ、激動の歴史を深掘り解説【後編】

WRITER

ISAO

1920年代以来、ハリウッド映画、ジャズ、ブロードウェイと「Tin Pan Alley」音楽の時代でしたが、ラジオ放送開始と共にポピュラー音楽の時代が到来、後にはメンフィスに生まれたロックンロールを介して、米国は長らく世界のサブカルチャー(大衆娯楽文化)を支配して来ました。…が、ビートルズを機に「British Invasion(英国の侵略)」が始まり、世界に革命的な衝撃を与えました。このような大きな節目、歴史的転換期に遭遇したISAO(洋楽まっぷ専属ライター)が思いついたことを、気の向いたままに、深く掘り下げていきます。

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