歴史上最も偉大なソングライター、ボブ・ディランの60年以上に渡る激動の歴史を年代別に解説【後編】

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洋楽コラム

Bob Dylan(ボブ・ディラン)は60年以上にわたるキャリアを誇り、史上最高のソングライターの一人と言われています。前回は1960年代に焦点を当て、急成長するカウンターカルチャーにアピールしてきたボブ・ディランの活動について解説しました。

今回は後編として、Bob Dylan(ボブ・ディラン)の1970年以降の激動の歴史を解説していこうと思います。

前編もCHECK!!
歴史上最も偉大なソングライター、ボブ・ディランの60年以上に渡る激動の歴史を年代別に解説【前編】

Bob Dylan(ボブ・ディラン)のプロフィール

Bob Dylan(ボブ・ディラン)
IMAGE VIA:Billboard

Bob Dylan(ボブ・ディラン)はミネソタ州ダルース出身のシンガーソングライター、作家、ビジュアルアーティスト。出生名はRobert Allen Zimmerman(ロバート・アレン・ジマーマン)。

これまでに1億2500万枚以上のレコードを販売し、グラミー賞やアカデミー賞をはじめ数々の賞を受賞。ロックの殿堂入りも果たしています。

2012年に大統領自由勲章を受章。2008年にはピューリッツァー賞特別賞を、2016年には歌手としては初めてノーベル文学賞を受賞しています。

CHECK!!
Bob Dylan(ボブ・ディラン)のプロフィール・バイオグラフィーまとめ

Bob Dylan(ボブ・ディラン)のキャリア

1970年代

1970年6月、10枚目のスタジオ・アルバム『Self Portrait(セルフ・ポートレイト)』をリリース。アイデア全体が裏目に出たと本人が述べるほど複雑で実験的な作品となり、チャートでは人気を博しますが多くの評論家からは悪評の連続となります。タイトルもなかったアルバムには自ら5分程度で書いたカバーアートが採用され、タイトルが決められました。

レコーディング拠点をナッシュビルからニューヨークに戻し、『Self Portrait』のリリースからわずか4ヶ月後、11枚目のスタジオ・アルバム『New Morning(新しい夜明け)』をリリース。このアルバムには、1970年6月、プリンストン大学から名誉学位を授与されたときの様子をディランが語った曲「Day of the Locusts(せみの鳴く日)」や、サラ・ディランへのラブソング「If Not for You(イフ・ナット・フォー・ユー)」などが含まれています。「If Not for You」はビートルズの解散直後だったジョージ・ハリスンがレコーディングに参加したことでも知られています。

Bob Dylan – If Not for You (Alternate Take) (Official Audio)

1971年3月、ディランはグリニッジ・ヴィレッジにある小さなスタジオでLeon Russell(レオン・ラッセル)とレコーディングを行いました。これらのセッションでは、「Watching the River Flow」と「When I Paint My Masterpiece」の新録音が行われました。1971年11月、ディランは「George Jackson(ジョージ・ジャクソン)」を録音し、1週間後にリリースしました。多くの人にとって、このシングルは、その年にサン・クエンティン州立刑務所でブラックパンサー党の指導者の一人、ジョージ・ジャクソンが殺害されたことを追悼する、意外なプロテストソングへの回帰でした。

1972年、ディランはSam Peckinpah(サム・ペキンパー)監督の西部劇映画『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』に曲とバックミュージックを提供し、自らもビリーのギャングのメンバー、エイリアス役で出演しました。この映画は興行的には失敗するも、「Knockin’ on Heaven’s Door(天国への扉)」はディランの最も多くカバーされている曲の一つとなりました。

Bob Dylan – Knockin' on Heaven's Door (Official HD Video)

ディランは1973年、コロムビアレコードとの契約が終わり、David Geffen(デビッド・ゲフェン)のアサイラム・レコードと契約。 次のアルバム『Planet Waves(プラネット・ウェイヴス)』は1973年秋にレコーディングされ、大規模なツアーのためにザ・バンドをバックバンドに起用しました。このアルバムには、彼の最も人気のある曲の一つとなった「Forever Young」の2つのバージョンが含まれています。この曲は1966年生まれの長男ジェシーの子守唄として書かれ、子供が強く幸せであり続けるという父親の希望を物語っています。

Bob Dylan – Forever Young (Official Audio)

1974年1月、アルバムは初の全米1位を獲得。同じタイミングでディランはザ・バンドをバックに、7年ぶりとなる40回の北米ツアーを行いました。ツアーの模様は同年6月に2枚組のライブ・アルバム『Before the Flood(偉大なる復活)』としてリリースされています。

その後まもなくコロムビアから「ディランを復帰させるためには何も惜しまない」という連絡がありました。ディランはツアーの成果にも関わらずデビッドがアルバムを60万枚しか売らなかったことに不満を持ったためち、アサイラムについて考え直し、コロムビアに戻りました。

1975年初頭にリリースされた『Blood on the Tracks(血の轍)』は様々な評価を受けましたが、ディランの最大の功績の1つとされています。

同年、ディランはニュージャージー州パターソンで起きた3人の殺人事件で投獄されていたボクサーのRubin “Hurricane” Carter(ルービン・”ハリケーン”・カーター)を擁護し、カーターの無実を訴えるバラード曲「Hurricane(ハリケーン)」を発表しました。8分を超える長さにもかかわらず、この曲はシングルとしてリリースされ、全米ビルボード・チャートで33位を記録し、ディランの次のツアー「Rolling Thunder Revue」の1975年のすべての日程で演奏されました。このツアーにはJoni Mitchell(ジョニ・ミッチェル)、Roger McGuinn(ロジャー・マッグィン)、Joan Baez(ジョーン・バエズ)など、グリニッジ・ヴィレッジのフォーク・シーンから約100人の演奏者や支援者が参加していました。

Bob Dylan – Hurricane (Official Audio)

1975年後半から1976年前半にかけて行われたこのツアーは、アルバム『Desire(欲望)』のリリースと同時期に行われ、ディランの新曲の多くは旅行記のような語り口を特徴としており、新たな共同制作者である劇作家Jacques Levy(ジャック・レヴィ)の影響が見られました。1975年のジャックとのツアーは、ディランの4時間近い映画『レナルド&クララ』の撮影もあわせて行われました。映画は1978年に公開されましたが評判が悪く、コンサートの演奏を中心とした2時間の編集版がより広く公開されました。40年以上経った2019年6月、ドキュメンタリー『Rolling Thunder Revue: Rolling Thunder Revue: A Bob Dylan Story by Martin Scorsese 』が、Netflixからリリースされています。

1976年11月、ディランはエリック・クラプトン、ジョニ・ミッチェル、マディ・ウォーターズ、ヴァン・モリソン、ニール・ヤングとともに、ザ・バンドのお別れコンサートに出演しました。1978年にMartin Scorsese(マーティン・スコセッシ)監督がこのコンサートを映画化したのが『ラスト・ワルツ』でした。

1978年、ディランは1年間のワールドツアーを行い、日本、極東、ヨーロッパ、北米で114回の公演を行い、合計200万人の観客を動員しました。ディランは、8人編成のバンドと3人のバッキング・シンガーを従えて臨みました。2月と3月に東京で行われたコンサートは、2枚組のライブ・アルバム『Bob Dylan at Budokan(武道館)』として発売されました。

ワールド・ツアー終了後、ディランはキリスト教福音派に改宗し、ブドウ園教会協会が運営する3ヶ月間の習得コースを受け、現代ゴスペル音楽のアルバムを3枚リリースしました。1979年リリース、『Slow Train Coming(スロー・トレイン・カミング)』は、Mark Knopfler(マーク・ノップラー)のギター伴奏で、R&B界のベテランプロデューサー、Jerry Wexler(ジェリー・ウェクスラー)がプロデュースしました。

翌1980年のアルバム『Saved(セイヴド)』は賛否両論の評価を受け、クリスチャン・アルバムとしては、1981年の『Shot of Love(ショット・オブ・ラブ)』を合わせ「ゴスペル三部作」と呼ばれています。

1980年代 低迷とロックの殿堂

1980年代 低迷とロックの殿堂
IMAGE VIA:Rolling Stone

1980年後半、ディランは「A Musical Retrospective」と銘打って、1960年代の人気曲をレパートリーにしたコンサートを短期間行いました。翌年初めに録音された『Shot of Love』では、2年以上ぶりに世俗的な曲を作曲し、キリスト教の歌を織り交ぜていました。後者の例として、1983年のアルバム『Infidels(インフィデル)』のレコーディング・セッションでは、リード・ギターにマーク・ノップラーを起用し、彼はアルバムのプロデューサーも務めたが、その結果、ディランはいくつかの注目すべき曲をアルバムから削除してしまいました。亡くなったブルース・ミュージシャンへのトリビュートであり、アフリカ系アメリカ人の歴史を喚起する「Blind Willie McTell」、「Foot of Pride」、「Lord Protect My Child.」などがその代表例で、この3曲は『The Bootleg Series Volumes 1-3 (Rare & Unreleased) 1961-1991(ブートレッグ・シリーズ第1~3集)』に収録されています。

1984年7月から1985年3月にかけて、ディランは23枚目のスタジオ・アルバム『Empire Burlesque(エンパイア・バーレスク)』をレコーディングしました。このアルバムのエンジニアとミックスを依頼されたのは、Arthur Baker(アーサー・ベイカー)でした。アーサー・ベイカーは、ディランのアルバムを「もう少し現代的なサウンド」にするために雇われたのだと感じたと語っています。

1986年7月に発売されたディランの次のスタジオアルバム『Knocked Out Loaded』には、3つのカバーに加えて、Tom Petty(トム・ペティ)、Sam Shepard(サム・シェパード)、Carole Bayer Sager(キャロル・ベイヤー・セイガー)の3つのコラボレーション、そしてディランの2つのソロ曲が収録されていました。しかしこのアルバムの評価は賛否となり、全米では56位と1962年のデビュー作以来、初めてトップ50入りを果たせませんでした。

1987年にはロックバンド、Grateful Dead(グレイトフル・デッド)のツアーに参加し、ライブアルバム「Dylan & The Dead(ディラン&ザ・デッド)」を制作しました。翌1988年6月からは、ギタリストのG. E. Smith(G.E.スミス)を中心としたバックバンドを従えて、「Never Ending Tour」を開始しました。ディランは、その後30年間、少人数のバンドを変えてツアーを続けていくことになります。

1987年、ディランはRichard Marquand(リチャード・マーカンド)監督の映画『ハーツ・オブ・ファイヤー』に出演。しかし低評価が続き限定公開となりました。

1988年1月にロックの殿堂入りを果たします。しかしこの時期、アルバムも映画も低迷が続いており、同年リリースされたアルバム『Down in the Groove(ダウン・イン・ザ・グルーヴ )』は全米61位と前作よりも順位を落とし、セールスも不調でした。このアルバムは批評的にも商業的にも失敗に終わりましたが、その後すぐにTraveling Wilburys(トラヴェリング・ウィルベリーズ)の成功が待っていました。

ディランはジョージ・ハリスン、ジェフ・リン、ロイ・オービソン、トム・ペティと共同でバンド、トラヴェリング・ウィルベリーズを結成。1988年末にはマルチ・プラチナムの『Traveling Wilburys Vol. 1』がアメリカのアルバム・チャートで3位を記録し、ディランのここ数年で最も親しみやすい曲と評された曲を収録していました。1988年12月にオービソンが亡くなったにもかかわらず、残りの4人は1990年5月に『Traveling Wilburys Vol.3』というタイトルでセカンド・アルバムを録音しました。

ディランは、Daniel Lanois(ダニエル・ラノワ)がプロデュースした「Oh Mercy(オー・マーシー)」で、この10年を批評的に高い評価で終えました。6年ぶりとなるトップ30入りを果たし、RIAAではゴールド認定を記録しています。失恋の曲である「Most of the Time」は、後に映画『ハイ・フィデリティ』で大きく取り上げられ、「What Was It You Wanted?」は、問答集と批評家やファンの期待に対する辛辣なコメントの両方として解釈されています。「Ring Them Bells」の宗教的なイメージは、一部の批評家には信仰の再確認として衝撃を与えました。

Bob Dylan – Most of the Time (Official HD Video)

1990年代 原点回避とケネディ・センター名誉賞

ディランの1990年代は、シリアスな『Oh Mercy』から一転して『Under the Red Sky(アンダー・ザ・レッド・スカイ)』で始まりました。デヴィッド・クロスビー、ジョージ・ハリスン、エルトン・ジョン、アル・クーパー、スラッシュ、スティーヴィー・レイ・ヴォーンなどが参加したこのアルバムは、このレコードは評判が悪く前作よりも下回る売り上げとなりました。

1990年と1991年のディランは、彼の伝記作家たちによって、ステージ上でのパフォーマンスを損なうほどの大量の飲酒をしていたと記述されていますが、 ローリングストーン誌のインタビューで、ディランは飲酒が彼の音楽を妨げているという疑惑を否定しています。

1991年2月にアメリカの俳優Jack Nicholson(ジャック・ニコルソン)からグラミー賞生涯功労賞を受賞した際、ディランが取り上げたテーマは「汚辱」と「自責の念」でした。この時期始まった湾岸戦争も重なり、ディランは「Masters of War」を演奏しました。

その後の数年間、ディランは自分のルーツに戻り、伝統的なフォークやブルースの曲をカバーした2枚のアルバムを発表します。1994年にはMTVアンプラグドに出演。伝統的な曲を演奏したいという彼の希望は、ヒット曲にこだわるソニーの幹部に却下されたと語っています。

1997年1月、マイアミのクライテリア・スタジオで行われたダニエル・ラノワとのレコーディング・セッションは、音楽的な緊張感に満ちたものだったと言われています。アルバム発売前、ディランはヒストプラスマ症による心臓発作で入院し、予定していたヨーロッパ・ツアーは中止となりました。しかしディランはすぐに回復。「エルヴィスにすぐ会えると思っていた」と言って病院を後にしました。その後すぐに活動を再開し、イタリアのボローニャで開催された世界聖体会議でPope John Paul II(教皇ヨハネ・パウロ2世)の前で演奏しました。教皇は20万人の聴衆を相手に、ディランの「風に吹かれて」をもとにした講話を披露しました。

同年9月、ディランは30枚目のスタジオ・アルバム『Time Out of Mind(タイム・アウト・オブ・マインド)』を発表しました。ディランの7年ぶりのオリジナル曲集は高い評価を獲得し、18年ぶりに全米チャートでトップ10入りを果たしました。この複雑な曲のコレクションは、グラミー賞で彼にとって初となる最優秀アルバム賞を受賞しました。

1997年12月、当時の米大統領ビル・クリントンはホワイトハウスのイーストルームでディランにケネディ・センター名誉賞を授与し、次のような賛辞を送った。「彼はおそらく、他のどのクリエイティブなアーティストよりも、私の世代の人々に影響を与えたでしょう。彼の声や歌詞は必ずしも耳に優しいものではありませんでしたが、ボブ・ディランはそのキャリアを通じて、喜ばせることを目的としてきませんでした。彼は平和を乱し、権力者を不快にさせてきました。」

2000年代 30年ぶりの快挙

ディランは2000年5月にポラール音楽賞を受賞し、2000年代に入ってからは、映画『ワンダー・ボーイズ』のために書いた曲「Things Have Changed(シングズ・ハヴ・チェンジド)」が2001年のアカデミー賞歌曲賞を受賞し、初のオスカーを手にしました。

2001年9月に発売された『Love and Theft(ラヴ・アンド・セフト)』。奇しくもアメリカ同時多発テロの発生と同日のリリースとなった今作は、ツアー・バンドと一緒にレコーディングを行い、ディランがJack Frost(ジャック・フロスト)というペンネームで自らプロデュースしたものです。このアルバムは批評家の間で好評を博し、いくつかのグラミー賞にノミネートされました。

2003年、ディランはキリスト教時代の福音主義的な歌を再検討し、『Gotta Serve Somebody: The Gospel Songs of Bob Dylan』に参加しました。同年、ディランはSergei Petrov(セルゲイ・ペトロフ)という偽名でLarry Charles(ラリー・チャールズ)監督と共同執筆した映画『ボブ・ディランの頭のなか』を発表。この映画は批評家の間で賛否両論となり、多くの批評家は「支離滅裂なデタラメ」と一蹴しましたが、少数の批評家は真剣な芸術作品として扱いました。

2004年10月、ディランは『ボブ・ディラン自伝(Chronicles: Volume One)』を出版。予想に反して、ディランは1961年から1962年のニューヨークでの最初の年に3つの章を割き、名声が最高潮に達していた1960年代半ばをほとんど無視しました。また、アルバム『New Morning』(1970年)と『Oh Mercy』(1989年)にも章を割いています。この本は全米図書賞にもノミネートされました。

Martin Scorsese(マーティン・スコセッシ)監督によるディランの自伝的長編ドキュメンタリー映画『ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム』は、2005年9月、イギリスのBBC TwoとアメリカのPBSで初放送されました。このドキュメンタリーは、1961年にディランがニューヨークに到着してから1966年のオートバイ事故までの期間に焦点を当てています。本作は2006年4月にピーボディ賞、2007年1月にデュポン・コロンビア大学賞を受賞しました。

2006年5月、ディランはラジオ番組「Theme Time Radio Hour」(XM Satellite Radio)の、曲の選定からテーマの選定まで、プレゼンターとしての活動が始まりました。ディランが物語を語り、多岐にわたる言及をし、音楽の選択についてコメントするもので、ファンや批評家から称賛されました。2009年4月、ディランは自身のラジオシリーズの100回目の番組を放送、テーマは「Goodbye」で、最後に流れた曲はウディ・ガスリーの「So Long, It’s Been Good to Know Yuh」でした。

ディランは2006年8月にアルバム『Modern Times(モダン・タイムズ)』をリリースしました。ほとんどの評論家はこのアルバムを賞賛し、多くの人が『Time Out of Mind』と『Love and Theft』とともに、成功した3部作の最終作と評しました。『モダン・タイムズ』は全米チャートで1位を獲得し、ディランのアルバムとしては30年ぶりの快挙となりました。グラミー賞では3部門にノミネートされ、最優秀コンテンポラリー・フォーク・アルバム賞を受賞し、シングル「Someday Baby(サムデイ・ベイビー)」で最優秀ソロ・ロック・ヴォーカル・パフォーマンス賞を受賞しました。

Bob Dylan – Someday Baby (Alternate Version from 'Modern Times' sessions – Official Audio)

2007年にはTodd Haynes(トッド・ヘインズ)が脚本・監督の、ヴェネツィア国際映画祭受賞作『アイム・ノット・ゼア』が公開。この映画では、ディランの人生のさまざまな側面を表現するために、6人の俳優が起用されました。この映画の名前の由来となった「I’m Not There」は1967年のディランの未発表曲で、この映画のサウンドトラックで初公開されました。

その数ヶ月後、コロンビア・レコードは「Dylan 07」のロゴの下、彼のキャリア全体をまとめた3枚組の回顧録アルバム『Dylan(ディラン)』をリリースしました。「Dylan 07」のマーケティング・キャンペーンの洗練された内容は、ディランの商業的な知名度が1990年代から大幅に上昇していることを示すものでした。

翌2009年4月28日にアルバム『Together Through Life』をリリース、収録されている10曲のうち9曲は、ディランとRobert Hunter(ロバート・ハンター)の共作とクレジットされています。 このアルバムはおおむね好評を博しましたが、何人かの批評家は、ディランの作品群の中ではマイナーな作品と評しました。全米チャートでは初登場1位を獲得し、ディラン(67歳)は同チャートで1位を獲得した最高齢のアーティストとなりました。

その半年後、初のクリスマス・アルバム『Christmas in the Heart』をリリース。このアルバムの販売によるディランの印税は、アメリカの「Feeding America」、イギリスの「Crisis」、「World Food Programm」の各慈善団体に寄付されました。

2010年代 ノーベル文学賞授与

2010年代 ノーベル文学賞授与
IMAGE VIA:Vanity Fair

「Dylan’s Bootleg Series」第9巻「The Witmark Demos」は2010年10月18日に発売されました。1962年にLeeds Music、1962年から1964年にかけてWitmark Musicというディランの初期の音楽出版社で録音された47曲のデモ音源です。あるレビュアーは、このセットを「若きボブ・ディランが音楽ビジネスと世界を一音ずつ変えていく様子をたっぷりと垣間見ることができる」と評し、 批評家の集計サイト:Metascoreは、このアルバムに86を与え、「universal acclaim」を示しました。

『The Freewheelin’ Bob Dylan』発売の2週間前、2011年4月12日、Legacy Recordings社より、1963年5月10日にブランダイス大学で収録された『Bob Dylan in Concert – Brandeis University 1963』が発売されました。このテープは、音楽ライターのRalph J. Gleason(ラルフ・J・グリーソン)のアーカイブから発見されたもので、マイケル・グレイによるライナーノーツが掲載されています。マイケルは「ケネディが大統領だった頃、ビートルズがまだアメリカに上陸していなかった頃のディランを捉えている」と述べています。

ディランの70歳の誕生日である2011年5月24日には、3つの大学がディランの作品に関するシンポジウムを開催し、彼の作品が学術レベルでどれだけ研究されているかが示された。マインツ大学、ウィーン大学、ブリストル大学は、文芸批評家や文化史家を招いて、ディランの作品の側面について論文を依頼しました。
この他にも、トリビュートバンドやディスカッション、シンプルな皆で歌う集まりなどのイベントが世界各地で開催され、『The Guardian』は次のように報じました。「モスクワからマドリッド、ノルウェーからノーサンプトン、マレーシアから故郷のミネソタまで、ポピュラー音楽の巨人の70歳の誕生日を祝うために、自称「Bobcats」が今日集まる」。

2012年5月、当時の大統領、バラク・オバマはホワイトハウスでディランに大統領自由勲章を授与しました。授賞式でオバマ大統領は、ディランの歌声について、「音楽の音だけでなく、音楽が伝えるメッセージや人々の気持ちを再定義した、独特のしゃがれた力強さ」と称賛しました。

2012年9月11日、ディランの35枚目のスタジオ・アルバム『Tempest(テンペスト)』が発売。このアルバムには、ジョン・レノンへのトリビュート曲「Roll On John」や、タイタニック号の沈没をテーマにした14分の超大作でタイトル曲の「Tempest」などが収録されています。翌2013年にはコロムビアからこれまでのスタジオ・アルバム全35枚と、ライブ録音のアルバム6枚、そしてアルバム以外のサイドトラックを集めたボックスセット『Bob Dylan Complete Album Collection: Vol.One』がリリースされました。

2013年と2014年のオークションハウスでの売り上げは、ディランの1960年代半ばの作品に対する文化的価値の高さを示しました。2013年12月には,ディランが1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルでの演奏で使用したフェンダーのストラトキャスターが史上2番目に高い96万5000ドルで落札されました。2014年6月には、ディランの1965年のヒット・シングルである「Like a Rolling Stone」の手書きの歌詞が200万ドルで落札され,これはポピュラー音楽の原稿としては記録的なものでした。

同年秋には960ページにもなるディランの歌詞集『The Lyrics: Since 1962』を発売。ディランのサインが入った50冊の限定版は、5,000ドルの価格で販売されました。出版元のサイモン&シュスター社Jonathan Karp(ジョナサン・カープ)は、「私が知る限り、これまでに出版した本の中で最も大きく、最も高価な本です」と述べています。

2016年10月13日、「アメリカ音楽の伝統を継承しつつ、新たな詩的表現を生み出した功績」を評価され、歌手としては初めてノーベル文学賞授与が決定。しかし発表からしばらく沈黙を守り、授与を受け入れるかどうかが世界中で話題となりましたが、同月28日に授賞を受け入れると発表。2週間も沈黙し続けた理由について、「あまりの事に、言うべき言葉が見つからなかった」と答えています。スケジュールの都合で授賞式に出席しなかったため、スウェーデン米国大使がスピーチを代役。パティ・スミスが賞を受け取り、彼の曲「A Hard Rain’s A-Gonna Fall」をオーケストラの伴奏で歌いました。翌2017年4月、プライベートなセレモニーが行われ、ディランはそこで金メダルと証書を受け取りました。

2018年4月、LGBTコミュニティのために再構築されたウェディングソングを集めたコンピレーションEP『Universal Love』に発売。このアルバムはMGMリゾーツ・インターナショナルが出資したもので、曲は「同性カップルのためのウェディング・アンセム」として機能することを目指し、ディランは1929年の曲「She’s Funny That Way」の性別代名詞を「He’s Funny That Way」に変えて録音しました。この曲は以前にビリー・ホリデーやフランク・シナトラによって録音されていました。ディランは、彼の曲「Ballad of a Thin Man」をよく読むと、彼の歌詞がアメリカの主流の異性愛規範に挑戦していることが明らかになり、遡って同性愛者のアイコンとされました。

2020年代

2020年3月、ディランは自身のYouTubeチャンネルで、ケネディ大統領の暗殺事件を軸にした17分の楽曲「Murder Most Foul」を公開しました。ビルボードは4月8日、ビルボード・ロック・デジタル・ソング・セールス・チャートのトップになったと報じました。ディランが自分の名前でポップ・チャートの1位を獲得したのはこれが初めてでした。その3週間後の2020年4月17日、ディランは別の新曲「I Contain Multitudes」を発表しました。 タイトルは、ウォルト・ホイットマンの詩「Song of Myself」の第51節からの引用です。5月7日、ディランは3枚目のシングル「False Prophet」をリリースし、「Murder Most Foul」、「I Contain Multitudes」、「False Prophet」の3曲が近々発売されるダブルアルバムに収録されるというニュースを伝えました。

ディランの39枚目のスタジオ・アルバムであり、2012年以来のオリジナル・アルバムである『Rough and Rowdy Ways(ラフ&ロウディ・ウェイズ)』は、6月19日にリリースされ、好評を博しました。イギリスのアルバム・チャートで1位を獲得し、ディランは「オリジナルの新曲で1位を獲得した最も年長のアーティスト」となりました。全米チャートでも2位と、8年ぶりのトップ3入りを果たしました。

同年12月、ディランが自分の全楽曲カタログをユニバーサル・ミュージック・パブリッシング・グループにしたことが発表されました。ディランの契約には、彼のカタログに掲載されている全曲の権利が100%含まれており、ソングライターとして受け取る収入と各曲の著作権の管理も含まれています。ディランへの支払いと引き換えに、フランスのメディアコングロマリットであるヴィヴェンディの一部門であるユニバーサルは、将来の楽曲からの収入をすべて回収することになります。ユニバーサルが600曲以上の著作権を購入しており、その価格は3億ドル以上、4億ドルに近い数字などと報道されました。

2022年には米国のソニー・ミュージックエンタテインメンが、今後つくる曲を含むデビュー以降録音した彼の全楽曲の原盤権を取得したことを発表しています。

ボブ・ディランの功績

ボブ・ディランは音楽、文化の両方の側面で20世紀で最も影響力のある人物の一人と言えます。

楽曲の歌詞が文学として認められた異例の背景には、アメリカ文化への深い影響に直結した内容でありながら、多くの比喩によって詩的に表現したことで並外れた力を持ったことにあるかもしれません。ディランが影響を受けてきた多くの人物や物事によって生み出された詩であり、その歌詞を表現するにふさわしい音楽性も紐づいたことでカウンター・カルチャー世代へのただいな影響を与えてきたことが、音楽賞以外の数々の賞を受賞している証と言えるでしょう。

ディランの歌詞は、1998年にスタンフォード大学が主催してアメリカで初めて開催されたボブ・ディランに関する国際的な学術会議で、学者や詩人から詳細な検討がなされるようになりました。2004年には、ハーバード大学の古典学教授であるRichard F. Thomas(リチャード・F・トーマス)が、「ディラン」と題した新入生向けのセミナーを設け、「過去半世紀の大衆文化だけでなく,ヴァージルやホメロスのような古典的な詩人の伝統の文脈の中でディランを置く」としました。一般的にも1995年の映画『デンジャラス・マインド/卒業の日まで』では、「Mr. Tambourine Man」の歌詞に注目し、「Mr. Tambourine Manは誰なのか」「play a song for meとは何を表現してるのか」などを映画の中で掘り下げています。

文芸評論家のChristopher Ricks(クリストファー・リックス)は、ディランの作品を500ページにわたって分析した『Dylan’s Visions of Sin』を出版しました。「もし私がディランを言葉の天才だと思っていなかったら、ジョン・ミルトンやジョン・キーツ、アルフレッド・テニスンやT・S・エリオットについての本と並んで、ディランについての本を書くことはなかっただろう」と述べています。

1960年代のディランの作品が、ポピュラー音楽に知的な野心をもたらしたと見なされていたとすれば、21世紀の批評家たちはディランを、最初に登場したフォーク文化を大幅に拡大した人物と評しています。

音楽的側面においてブルースからフォーク、ロックからポップと大衆に広く受け入れられたディランの曲は多くのミュージシャンにも影響を与えています。

ディランがアコースティックなフォークやブルースの音楽からロックのバッキングに移行したとき、そのミックスはより複雑になりました。多くの評論家にとって、ディランの最大の功績は、1960年代半ばに発表されたアルバム三部作:「Bringing It All Back Home」、「Highway 61 Revisited」、「Blonde on Blonde」で示された文化的統合でした。

最後に

ボブ・ディランについてその経歴を振り返っていきましたが、今年80歳でも今尚現役で活躍しており、生ける伝説とも言える人物です。11月には2010年から書き溜めていたエッセイ『The Philosophy of Modern Song』も発売されるそうでこちらにも注目ですね。

是非この機会に初期の名曲・ヒット曲を知らない世代の方にもBob Dylan(ボブ・ディラン)の魅力が少しでも伝わればと思います。

以上、Bob Dylan(ボブ・ディラン)についてご紹介しました。

前編もCHECK!!
歴史上最も偉大なソングライター、ボブ・ディランの60年以上に渡る激動の歴史を年代別に解説【前編】

WRITER

ISAO

1920年代以来、ハリウッド映画、ジャズ、ブロードウェイと「Tin Pan Alley」音楽の時代でしたが、ラジオ放送開始と共にポピュラー音楽の時代が到来、後にはメンフィスに生まれたロックンロールを介して、米国は長らく世界のサブカルチャー(大衆娯楽文化)を支配して来ました。…が、ビートルズを機に「British Invasion(英国の侵略)」が始まり、世界に革命的な衝撃を与えました。このような大きな節目、歴史的転換期に遭遇したISAO(洋楽まっぷ専属ライター)が思いついたことを、気の向いたままに、深く掘り下げていきます。

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